2020-07-22(他者/読めない)

 

また二週間以上あけてしまった。

 

愛が他者との融合であるとするなら、愛が他人の申し分のない美点を前にしたときの恍惚であるとするなら、あるいはまた心穏やかになにかを所有することであるとするなら、マルセルはアルベルチーヌを愛してはいない。

 

レヴィナスプルーストにおける他者」、合田正人

 

この一節がとても好きで通読していないにもかかわらず、プルーストでレポート書こうとしてるんだけど、大丈夫なのかな…。別々のテーマで8個もの文章を書かなくてはいけなくて、最初は到底終わらない無理と思っていたけれど、終わらせられるかもという気がしてきた。でもまだ全く手つけてないのもある。しいたけ占いが「今週のあなたは強いです!」と励ましてくれたから大丈夫な気がする。

 

さいきんは3-12時くらいにかけて寝て、食事を台所でたったまましている。ちいさくちいさくなってしまったカントリーマームとアーモンドチョコレートとスーパーカップ(桃ヨーグルト味)と無花果ジャムと素麺と納豆で生きている。

今月、五冊しか通読してないらしい。今年入ってから毎月20冊以上は読めてたからけっこうショックで、昨日の夜高橋たか子を読もうとしたけど、30ページくらいで寝てしまった。

 

ZOCのことぜんぜん知らなかったけど、戦慄かなののインタビュー動画見て、ああこういう世界があるんだよな、わたしは本当にぬくぬく育ってきたんだよな、と思った。

 

 

2020-07-07(サボる/若草物語)

 

 

 

だいたい調子が悪いときは、この世界に好きなものがあるということを忘れる時で、なぜ忘れるかというと、他人を羨望したり嫉妬したりするからだと思う、つまるところ。ここに書くのを一週間以上開けてしまうのはよくない。

 

とくに仕事がきついとか、嫌な上司や同僚がいるとかではないのだが、どこにも行かずにアパートにいたいという欲望が強烈で、屈する以外になかった。きょうの場合、会社を休むことはゆうべのうちに決めていた。雨が降っていたからだ。雨はうっとうしい。だから有為子は、もしあしたも雨なら会社を休もうと決めた。が、起きてみると晴れていて、正直なところ、有為子はかなり困った。〔…〕でも、すでにすっかり休む気でいた有為子としては、天気がいいからといって急に出勤モードに切り替えられるはずもなく、こんなことをしていていいのだろうか、と思いながらも寝そべって、ぬいぐるみたちといっしょにテレビ画面で、アメリカの風景や犯罪や、カーチェイスや撃ち合いや、食事シーンや入浴シーンを眺めている。有為子が会社に行かなくてもぬいぐるみたちは気にしない。というより。行かないのがあたりまえだとすら思っているに違いなく(だって彼らは誰も会社になど行かないのだし、この世に会社という場所があることも知らないのだから)、有為子は彼らに許されていると感じる。仲間として認められている、とも。

 

江國香織『去年の雪』

 


ディスプレイの見過ぎとお菓子の食べ過ぎで気持ち悪いし、相変わらず家は険悪。甘えすぎだって言われて、たしかに経済的にはかなり甘えてるんだけど(でも高校の同級生の話を聞く限り、そんなに甘えてない方だと思う)、それ以外は甘えてるつもりはなくて一体わたしにどういう風に育って欲しかったのだろう。口ごたえしない従順な子供?なんで産んだんだろう早く死にたいというところにいつも帰着してしまう。『ストーリー・オブ・マイライフ』で、ジョーが「女は野心もあるしべつに結婚しなくたって幸せだけど、でも寂しい」って言ってたところで号泣してしまった。

 

だれにも存在をのぞまれなくていいから、せめて、だれにも存在をうとまれたくない。

2020-06-23(引用/独房)

テキストを「変形する」にはテキストに自分から何かを付け加える必要はない。テキストを引用する、つまりテキストを切り取るだけで十分なのだ。

 

ロラン・バルト『批評と真実』保苅瑞穂訳

 


夜(さいきんは2、3時)寝る前に読んで付箋を貼り付けていたところを、朝(10、11時)起きて引用すると、なんとなくいい気分になる。バルトにお墨付きをもらったところで(この訳者、テクストって言わないのね)、今日もぱちぱちキーボードを打った。音楽を流しながら読書することはできないけれど、引用することはできる。

 


どういうわけか、今夜の彼からは淡々とした話振りの底に熱い情熱が間歇的に迸って、動揺し勝ちの歳子をしばしば動揺さした。そして彼は頻りに恋愛の話をしたがった。昔語りでも嘘でもロマンスの性質を帯びれば、それがすべて現実に思えるような水色の月が冴えた真夜中になりかけていた。彼は恋愛を愛するが、しかし情熱の表現の仕方については、こういう風変りなことを云った。

「——肉体も精神も感覚を通して溶け合って、死のような強い力で恍惚の三昧に牽き入れられるあの生物の習性に従う性の祭壇に上って、まるまる情慾の犠牲になることも悪くはありませんが——しかし、ちょっと気を外らしてみるときに、なんだか醜い努力のような気がします。しかも刹那に人間の魂の無限性を消散してしまって、生の余韻を失くしてしまったような惜しい気持ちがしますね。僕はそれよりも健康で精力に弾ち切れそうな肉体を二つ野の上に並べて、枝の鳥のように口笛を吹きかわすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合った男性と女性とでありたく思うのです」

微風が草の露を払う。気流の循環する加減か遠い百合の畑からの匂いに混って、燻臭いにおいがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰に乗じて煙突の掃除をしているのだと牧瀬はいった。その埃の加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色の靄が立ち籠めて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ語れと誘うように見える。

 

岡本かの子「夏の夜の夢」『越年 岡本かの子恋愛小説集』

 

 

ずっと家にいるとはやく家を出たいということしか考えられなくなって、おかしくなりそう。はやく家出たいけどはたらきたくないし、綺麗なお風呂に入りたいし、虫がいたら耐えられない。しぬしかないのかな。

 


「時には、俺だって死んでしまいたいと思うことがあるんだ。ここにあるということも、ここで考えるということも、ひどい冗談だとしか思えなくなる時がある。本を読んだり、考えごとに耽ったり、いろいろな知識を溜め込んで、いろいろな主義主張に魅せられて、いつも慌ただしく駆けずり回っては、そのたびに何か新しいもの、自分にとってはそれと出会えたことが運命だと思えるようなものを見つけてくる。とても素晴らしいことだけど、それが牢獄の壁を破ってくれることはないんだ。いつも独房の模様替えをするだけで終わり、そのうち新しい内装にも飽きてしまい、また西に東に奔走することになる。絶えず新たに家具や壁紙を見つけ直さなくっちゃならないってわけだ。俺が怖いのは、仮に満足のいく文章が書けたとしても、それでも終わりが訪れないってことなんだ」

 

金子薫『アルタッドに捧ぐ』河出書房新社、2014年、109頁

2020-06-20(二重引き出し読書/勉強部屋)

ぼくはもともと文学的な人間でも哲学的な人間でもなくて、またとくに行動的な人間でもなくて、自分が体験したことのなかで気になったことを丹念に敷衍していくタイプです。昆虫採集型です。だから日記や日記めいたものはずっと書いていまして、自分の人生は日記のようなものだと思っていたくらいですが、これって「意識と実景の二重進行」なんですね。いわば編集的なんです。しかし世の中には、そのことをみごとにあらわしている人はいくらでもいる。フランス文学にも、むろんそういう作家や詩人がいた。それがぼくには大学に入る直前ではプルーストであり、コクトーだったんですね。また、パリを描写したリルケだった。それで、自分が書いている日記なんかよりよっぽど凄いものを求めて、フランス文学科に入ったんですが、そこから先に読んだものはフランス文学だからよかったとかダメだったということではなくて、たとえば「パリをどう描いたのか」という描き方について、ぼくが触発を受けたか受けなかったかということでした。〔…〕そういったものを読んで、「そうかパリを書いて、自分を書いているんだ」と思ったわけです。つまり場所を書いている。そういう場所を思考や表現の下敷きにしていると、二重進行が可能になるんだとわかった。そういうふうに書く方法があるのかと思った。これは読書法のほうからいいかえれば、読書をするときに「場所」を下敷きにしながら読むという「二重引き出し読書」とでもいう方法を、ぼくに気づかせたんですね。


松岡正剛『多読術』

プルーストはゲルマントの後半ですっかり停滞しています。日記を書く気力が全然なくて、でも大学の課題などは辛うじてぜんぶやっていて、わりと際限なく本を買っていて、あとは、ギターを買った。青葉市子の曲が弾きたくて買ったから、一通り弾けたら飽きちゃうかもしれないけれど、けっこう難しいのでいい暇つぶしになっている。といっても、耳コピという高尚なことはできないので(高校の軽音の友人普通にみんなやってたけどよくよく考えると凄い)、YouTubeに解説動画を上げてくれている見るからに人の良さそうなおっちゃんに学びながらやっている。

 

私とか言って、ホームページにこういう文章書いたりとかするとき、この文章とかって、いつも私は私の勉強部屋で書くんだけど、勉強部屋って言っても今の私はもちろんもう勉強なんかしないんだけど、私にとってはでもここは勉強してなくても子供の時からの勉強部屋なんだけど、私は子供の時はかなり勉強した、勉強がかなり好きなほうのこれでも子供だったから、それがかなり懐かしくて、自分の大切な部分だったりするってこともあったりするんでいまだに私的には、この部屋は呼び方は勉強部屋ということになってるんだけど、親に言う時はでも部屋って普通に言うんだけど、今はでもホームページの更新とか、こうやって日記を書いたりとか、まんがを読んだり或いはまんがを描いてみたりするときもたまに実はひそかにあるんだけど、そういうこととか勉強部屋でいまだにしてるんですけど、そういうことをずっと集中して勉強部屋でやってるとふと凄い、勉強部屋がなんか小さな宇宙船みたいに感じられてくることがあるっていうか、勉強部屋だけ家の他の部分からも切り離されて単独になってそれは飛んでるんだけど、宇宙空間をほんとこれだけの小さな宇宙船なんだけど、でもすごく空気とか静かな透明っていうか孤独感とかみたいなのがすごくいい感じの、なんだろう、私ひとりだけっていうのが私はやっぱり一番好きだなってすごく思うときの感じが充満して、ドアを開けたらなんか、無重力で、空気のない真空の空気が入ってくる、窓のカーテン開けたらたぶん宇宙の景色になってるんだよ今絶対、っていう、すごい、感じがするときがあって、自分がそういう時ってもうそれだけが誰がなんと言っても自由っていう、ずっとそんな感じで生きていたいよ、〔…〕


岡田利規『三月の5日間』

 

2020-06-05(ぺらい言葉/良い映画)

忘れるなかれ。私の無知ぶりはチャーミングではない。自然については何も知らないの、とかわい子ちゃんぶって告白するより、花の名前は知っておいたほうがいい。私ってよく道に迷うのと吹聴するより、方向感覚を磨くほうがいい。こういう言いわけは累積すると自慢話になるけど、私には自慢することは何もない。無邪気よりは物知りのほうがいい。もはや娘っ子じゃないんだから。しとやか、従順に相手の選択に委ねるより、決断力があり、意志が強いほうがいい。

——スーザン・ソンタグの日記より

 

ずっとだめな状態がつづいている。深いところに降りてゆけず、うすっぺらな言葉をはなちつづけている。根本的にいまいるところがわたしに向いてない気がする。

 

自粛要請というどう考えても語義矛盾の言葉が、連日聞かされるうちに耳に馴染んでしまったように、誹謗中傷という言葉もまた目や耳を通り過ぎていく言葉になりつつある。言語のパフォーマティヴィティがいい方向に作用することなんて、ほとんどないのかもしれない。

 

 


はじめて休んだバイトの時間で見た、パヴェウ・パヴリフスキの『COLD WAR』が完璧な恋愛映画だった。とにかくセンスがいい。本筋には全く関係がないけれど、度肝を抜かれたのが、幻想即興曲を弾くシーンに続いて、ピアノ音がミシンの音の変拍子みたいなリズムと合わさるところで、これはわざとやっているのだろうか?その後曲は流れたまま、三人の少女が雨の降る夜を大きな窓辺で見ているシーンも本当に美しく、さらにその幻想即興曲の調から自然に、民俗音楽のダンスの曲へと繋がる。この二分くらいのつなぎ方だけでも凄いのに、これが88分(映画は全部90分以内にしてほしい、飽きるから)ずっと続いていく。エンドロールでグールドのゴルドベルク変奏曲(1981年の方)が流れるのも本当にずるい。話はまあメロドラマだけど、わたしはメロドラマが好きだし、ラストが心中というのはこれ以上ない形だと思っているから。傷心の男がピアノを弾いていくうちに狂ってしまうところも好きです。

 

もうはやくぜんぶおわりにしたい、はやくぜんぶおわってほしいと願い続けている。

 

 

 

 

 

2020-05-15(言説/経験/大江と村上)

精神分析理論がその中で決定的な役割を担ったこの広い反人間主義的な構想は、フェミニズムの理論にとっても意味と効果を持っている。〔…〕この構想はまた、フェミニストたちが、生きられた経験という無批判な概念に自分たちの有効性を置こうとする主張に用心すべきであるということも意味している。というのは生きられた経験は、もはやそれ自身認識されない社会的諸権力の一つの複合的構成物だからである。


フェミニズム精神分析事典』「主体」の項(エリザベス・グロス

フェミニズム現象学』という本が来月出るみたいですが、最近のフェミニズムクィアスタディーズの流れとして、それまで「言説的なもの」に偏っていたことの反省としてそれぞれの生きられた経験を見直そうというのがあって、情動理論や現象学はおそらくそこに位置づけられる。情動理論は、スピノザaffectus→ドゥルーズaffectの流れのあの怪しげな「強度」が鍵になったりするみたいだけど、その妥当性はいかほどのものなのでしょう、とちょっとこの流れには懐疑的ですが、まあもう少し内容を検討したいところ。江川隆男の『スピノザ『エチカ』講義』も今日入手したので、まずはスピノザの身体−情動をちゃんと知りたい。最近はレヴィナスを読んだり、なんだか哲学哲学してきてしまったなという感じである。〈愛知〉(philosophy)ではなく〈嫌知〉から出発したいものです。

 

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大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』を再読した。
「他人だから一体化はできない。以前はそう諦めることで透明になっていく詩情」をうたっていた、と『sister on a water』vol2 で本人が言っていましたが、確かに、諦めている歌が多い。冒頭の連作「硝子の駒」から

尊さと遠さは同じことだけど川べりに群生のオナモミ
美しいものを静かに拒みつつぺんぺん草を踏んでゆく土手
水切りの石を選んで届かない言葉かアポリネールの石は
途切れない小雨のような喫茶店会おうとしなければ会えないのだと
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠

 

 

あと、やっぱり「みずうみ」の出てくる歌もいくつか出てきて、このワードは本当になぜ短歌頻出なのだろう。「みずから」とも似ているよね。

 

 

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大江健三郎小澤征爾の対談『同じ年に生まれて』(2000年に収録)と、村上春樹小澤征爾の対談『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(2010−2011年に収録)をちょっと読み比べてみた。
ちなみに大江と小沢は1935年、村上は1949年生まれ。

まず村上との方の対談は、村上の自宅で彼の所持するレコードをかけながら行われている。それだからか、誰々の演奏はこうで〜とか、指揮はどうで〜と、固有名詞を介した会話がなされている。村上は自分でも言っているように、いち音楽ファンでありレコード収集家(そういう人はあまり好きではないと小澤は言っている)なので、ミーハーぽい感じ。村上は前書きで、自分たちは結構似てるって言ってるけど、そうか?
対して、大江の方は、もちろん大江光の存在があって、それだけにより近いところで話しているという感じがする。二人とも教育者でありたいという話が面白かった。


いちばん対比的だなとおもったのは、音楽と文学を重ね合わせて語る時で、

新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズム感があるかどうかで、だいたい見分けられます。[…]小説を書いていて、そこにリズムがないと、次の文章は出てきません。すると物語も前に進まない。

このように村上はリズムを重視し、

音楽は、和音なら和音という垂直のものがあって、その表現を、横への音の動きの中においてやるものだと。それは文学でもまさに同じことが言えるんですね。文学では、和音のかわりにメタファーと言いますけれど、暗喩ですね。

大江はハーモニーとメロディを重視する。

それが小説に実際どうあらわれているかというところまでは言えませんが(大江の小説は全然読んでいないし)、この対比は面白い。三要素全て大事とは言わないのね。

 

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大学もバイトもオンラインで、zoomというアプリが機能しないと世界が立ち行かなくなる、という状況に驚愕していますが、土日は画面を見ずに過ごしたい。

2020-05-06(読書会/ベンヤミン/今後)

 

勉強は一人でするものだ、ということには完全に同意するし、実際今まで「放課後友達と集まってファミレス(?ミスド?)で勉強する」などやったことがないし(そんな友達がいなかったんじゃない?という突っ込みは置いといて)、グループワークなんて死ぬほど不毛だと思っている。しかし大学に入ってから、どうやら一つの本をみんなで読むという行為があることを知った、読書会というもの。なぜ私が今まで(同じ学生という立場の)人と勉強したことがないかというと、わからない人同士でなんかしても進展は生まないし、時間の無駄じゃない?と思うからで、まあ実際正誤のはっきりしている高校までの勉強に関してはそうだし、去年半年ほど読書会に参加してみたときも「早く帰りたいなあ」と幾度となく思った。それでも、私は生産的な読書会(勉強会)というものに参加してみたい。どうすれば生産的になるのだろう。

 

ということをずっと考えている。今はオンライン読書会なるものがあり、それだと「早く帰りたい」という問題が解決されるのでいけるかなという気がする。
勉強は一人でするものだ、といってもやっぱり少し教わることは必要で、わたしの大学は日本の中でそこそこ規模が大きくそこそこ偏差値とかはいいはずでそこそこいい教員がいるはずなのに、そもそも取れる授業数が少ないということは結構問題だと思う。週に10コマだよ?少なすぎる(同じ大学の理系学部はもっと多いはず、倍ちかくあるのではなかろうか)。まあ潜ればいいという話だったんだけど、今はそれもできないし。今の日本を見ていると、こんなに教育って蔑ろにされているんだね、ということがよくわかる。もちろん勉強したい人がすればいいんだけど、したい人が思うようにできない、ということはちょっとどうなのかな。まあまず私にできることは、ここに自分の考えたことをできるだけ書いておくことしか思いつかないので、そうしたい。といいつつうんざりするぐらい怠惰を極めているのですが。

 

今読んでいるもの、これから読むもの
ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』浅井健二郎訳
 最初の「認識批判的序章」がいちばん面白かったかもしれない。〈理念〉とモナドの関連とか、Konstellation(星座、配置)はagencementっぽいし、ドゥルーズは絶対これ参照しているでしょ、って思ったけれどどうなんでしょう。檜垣立哉がたぶんそれに関する文章書いていると思うので読みたい。
「すべて悲しみのうちには、言語を発しえない状態へと陥ってゆく傾向が潜んで」(下154頁)いて、それをメランコリーと呼ぶわけですが、フロイトのメランコリーとの関連はあるのかな。あとメランコリーとアレゴリーの関連がいまいち分かっていない。
あと、象形文字と音声(と音楽)の関係についての記述があるんですが、岩波新書が(みすずアンケートで)評判だった柿木伸之の「言語の解体と再生」っていうネットにあった文章では、デリダエクリチュールに引きつけられていて、それはどうなの?と思いました。何でもかんでもフランス現代思想に引きつけるのは本当に良くない(自戒)。とはいえ、その「象形文字」っていうのが本文では古代エジプトの文字などが引き合いに出されてたけれど、ではバロック悲劇ではどうなの?というところがもやもや残る。
わかんないとこだらけで結局理解度2割くらいかもしれない。

 

結城浩数学ガールガロア理論
 全然知識なくてもそれなりについていけるように書かれてあるからやっぱりいい本なのかも。ζという文字を初めて書いた。数学という学問で、そもそもどういうことが問題になっているかも知らなかったけれど、これ読んだりネットを漂ったりしていたらけっこう興味が湧いてきたので、引き続き読んでいきたい。次は『ゲーデル不完全性定理』読む。哲学と近いっぽいので楽しそう。

 

堀江敏幸『その姿の消し方』
 短い間に何回かツイッターで話題に上がっていたので。まだ途中だけど。正直にいうとこの落ち着き払った感じの文章が、わたしにはそこまで響いてこない。まあ舞台がフランスだから仕方ないのかもしれないけれど、ヴァン・ショとか出てくると、最近読んだ『幽界森娘異聞』の、森娘のお洒落お料理に対する「私」の(愛のある)揶揄を思い出してしまう。

 

これから読む予定なのは、フェミニズム関連ではハラウェイの『猿と女とサイボーグ』、クリステヴァの『黒い太陽』(メランコリー論なのでベンヤミン覚えているうちに読みたい)、あとバトラー『アセンブリ』の再読、セジウィックの『クローゼットの認識論』(これも早いとこ読まねば)…と書いていて私は数学なんかやってないでこれらを読まねばならないのでは?という気がひしひしとしていますが、まあ知りたい&やっていて楽しいことをやりたい。フェミニズムは知りたいけどやっていて楽しくはないというところが、やっぱり自分にはそれに注力するのは向いていないなあと思う。