ぼくはもともと文学的な人間でも哲学的な人間でもなくて、またとくに行動的な人間でもなくて、自分が体験したことのなかで気になったことを丹念に敷衍していくタイプです。昆虫採集型です。だから日記や日記めいたものはずっと書いていまして、自分の人生は日記のようなものだと思っていたくらいですが、これって「意識と実景の二重進行」なんですね。いわば編集的なんです。しかし世の中には、そのことをみごとにあらわしている人はいくらでもいる。フランス文学にも、むろんそういう作家や詩人がいた。それがぼくには大学に入る直前ではプルーストであり、コクトーだったんですね。また、パリを描写したリルケだった。それで、自分が書いている日記なんかよりよっぽど凄いものを求めて、フランス文学科に入ったんですが、そこから先に読んだものはフランス文学だからよかったとかダメだったということではなくて、たとえば「パリをどう描いたのか」という描き方について、ぼくが触発を受けたか受けなかったかということでした。〔…〕そういったものを読んで、「そうかパリを書いて、自分を書いているんだ」と思ったわけです。つまり場所を書いている。そういう場所を思考や表現の下敷きにしていると、二重進行が可能になるんだとわかった。そういうふうに書く方法があるのかと思った。これは読書法のほうからいいかえれば、読書をするときに「場所」を下敷きにしながら読むという「二重引き出し読書」とでもいう方法を、ぼくに気づかせたんですね。
松岡正剛『多読術』
プルーストはゲルマントの後半ですっかり停滞しています。日記を書く気力が全然なくて、でも大学の課題などは辛うじてぜんぶやっていて、わりと際限なく本を買っていて、あとは、ギターを買った。青葉市子の曲が弾きたくて買ったから、一通り弾けたら飽きちゃうかもしれないけれど、けっこう難しいのでいい暇つぶしになっている。といっても、耳コピという高尚なことはできないので(高校の軽音の友人普通にみんなやってたけどよくよく考えると凄い)、YouTubeに解説動画を上げてくれている見るからに人の良さそうなおっちゃんに学びながらやっている。
私とか言って、ホームページにこういう文章書いたりとかするとき、この文章とかって、いつも私は私の勉強部屋で書くんだけど、勉強部屋って言っても今の私はもちろんもう勉強なんかしないんだけど、私にとってはでもここは勉強してなくても子供の時からの勉強部屋なんだけど、私は子供の時はかなり勉強した、勉強がかなり好きなほうのこれでも子供だったから、それがかなり懐かしくて、自分の大切な部分だったりするってこともあったりするんでいまだに私的には、この部屋は呼び方は勉強部屋ということになってるんだけど、親に言う時はでも部屋って普通に言うんだけど、今はでもホームページの更新とか、こうやって日記を書いたりとか、まんがを読んだり或いはまんがを描いてみたりするときもたまに実はひそかにあるんだけど、そういうこととか勉強部屋でいまだにしてるんですけど、そういうことをずっと集中して勉強部屋でやってるとふと凄い、勉強部屋がなんか小さな宇宙船みたいに感じられてくることがあるっていうか、勉強部屋だけ家の他の部分からも切り離されて単独になってそれは飛んでるんだけど、宇宙空間をほんとこれだけの小さな宇宙船なんだけど、でもすごく空気とか静かな透明っていうか孤独感とかみたいなのがすごくいい感じの、なんだろう、私ひとりだけっていうのが私はやっぱり一番好きだなってすごく思うときの感じが充満して、ドアを開けたらなんか、無重力で、空気のない真空の空気が入ってくる、窓のカーテン開けたらたぶん宇宙の景色になってるんだよ今絶対、っていう、すごい、感じがするときがあって、自分がそういう時ってもうそれだけが誰がなんと言っても自由っていう、ずっとそんな感じで生きていたいよ、〔…〕
岡田利規『三月の5日間』