2020-04-30(都雅/ウニ)


日記は日付のみが冠された文章ということに意味があると思うけれど、暇つぶしに今までの日記のいくつかにその日の文章のキーワード的なものを付け加えました。便宜的に良い。斎藤飛鳥のブログのタイトルが長くて独特で好きです。

野溝七生子の『山梔』を読んだときにも文章を書いた

2019-09-05(少女/山梔/モイラの裔) - よくわからない比喩

けれど、『女獣心理』を読んだらこれまたすごく好きな小説だった。

「私が黙って我慢したのは、私自身の罪を承認したことになるんですって?あの方はそう仰云いました。では、仮に私が何か大きな声で、抗議を申し立てたからって、それが私の恥にはならないですんだでしょうか。自分の恥辱を、屋根の長辺から、喚き立てるものなんぞ、居やしない。そんなことのできる人はほんとに稀です。仮に私がそうできたからって、矢張り人は承知をしやしないでしょう。私は独りぽっちの無力な孤児ですもの——でも馬鹿でだけはなかったのです——あなたの名誉や体面を保つためには、私の申出を、あの方が、早計に、拒けておしまいになった代りに、あなた方はどんなにしてでも私に罪を着せようとなさることを知っていました。私が、黙っていてさえ、そうでしたもの。それでも、私にはまだ、あの方の愛情や恩顧を思って、黙っていてだけはさし上げられる、忍耐や勇気は残っていました。それに、人の心の底までは、自分にも解るものではありませんわ。私にだって、まるっきり、落度がなかったのだとは云えないんですもの。あなた方は、ほんとに私にはその時まで、親切にして下さいました。それが私には、陥穽だったのです。あの以前に、もう、私は人間というものを、少しは親類達から学んだ筈でしたのに、何故、また、うかつにも人間なんぞを信じようとしたか——」

まさに都雅な(この形容詞この本で初めてみたんだけど、ハイカラで素敵な女性を表すのにぴったり)文体と、人物造形と。そういうのが好き。図書館が開いたら、野溝七生子関連のものを借りたりコピーしたりしたいな。森娘とも合わせてここら辺もっと読みたいね。

 

ランシエールの『感性的なもののパルタージュ(分割=共有)』も読んだ。何気に初めて買ったウニベルシタスだった。いや、一冊まるまる読んだのも初めてだった(調べてみてびっくり)。図書館の地下のウニベルシタスがたくさん並んで分かりにくいところにはよく行っていたので何か一冊は読み通した気になっていた。もともと大体の概要は知っていたのでそれを確かめる感じで。要するに境界(カテゴリー)攪乱&脱領土化やろ(雑)。ランシエールはどの書物でも言っていることがわりと同じらしいのだけれど、結構好きだと思う。派手すぎず、過激すぎず…。あと、フランス現代思想の人々のベンヤミンに対する距離の取り方はちょっと面白い。やりたいことはわかるけどその歴史認識じゃ甘いよ、と微妙に批判することが多い気がする。ランシエールマラルメ論読み返したいよー。

 

読んでるけど読んでないみたいなふわふわした心持ちが続いていて、すごく精度が悪い感じがして、さらに精神状況が悪くなる。こういうときのソンタグの日記!(前は図書館で借りて読んだ)と思って注文しているんだけど、なかなか届かない模様…。いい感じの対談とか勝手にするする入ってきてくれる文章が読みたい。ネットでオペラ見れたり、映画見られるのは知ってるんだけど、このラップトップの画面では限界があるし見る気になれない。語学も放置してるし、もうだめだめだ…。

 

 

2020-04-26(恥/副言/数学)


かなりのことを「面倒くさい」の一言で片付けてしまう一方で、へんに向上心のあったりする自分を自分でも不思議に思うのだから、他人からみたら私の行動は不可解でしかないのだろう。成人式とか同窓会的なものを面倒だから全部すっ飛ばしてツイッターやインスタのアカウント(いわゆるリアアカ)も消していたら、なんか触れちゃだめなヤツというカテゴリーに入れられていた。

生理前後の二週間くらいずっと調子悪い気がするので、実質人生のほぼ半分が調子悪いことになる。加えて最近は一定量以上(たぶん標準量の一食分の半分くらい)の固形物を摂取すると必ずお腹が痛くなるので本当に体が煩わしくて仕方がない。目が痛くなったり頭が痛くなったりお腹が痛くなったりしなければもっと本を読めるのかな。

もうドゥルーズ研究者のフォロワーになりたくない、ポストモダンとか恥ずかしいと思い続けているのに(2000年生まれのわたしでさえ)、江川隆男の『すべてはつねに別のものである』をうっかり買ってしまい、うっかりしっかり読んでしまい、面白いので困っています。

人間は、自由意志によって擬人化されて定義されるよりも、むしろあらゆる条件づけを変形し転換しようと大地を這いずり回る動物として把握されるべきであろう。

こんな文章がポンと出てくるんだから。対立としての差異=〈対言〉の論理ではなく、〈副言〉としてジェンダー論が考えられたら面白い(二項対立を脱構築!というお決まりの文句から逃れられるから)とは思ったけれど、肝心の器官なき身体や情動を語るところで、少し抽象度があがって煙に巻かれた感じがしたので『アンチモラリア』や『エチカ』講義が読みたくなってしまった、まんまと。あと結局ベーコン論とかニーチェ論とか買う羽目になると思われる。
来月はエリザベス・グロスの翻訳が出るので心待ちにしていますが、これもドゥルーズ関連です(でもフェミニズム論でもあるからそれはいいの)。しかし今日買ったのは、『監獄の誕生』と『感性的なもののパルタージュ』と高橋哲哉の『デリダ』…ポストモダンばかり読んでいるのも恥ずかしいですが、読んでない方が恥ずかしいと言い聞かせています。絶対にそんなことはない。フェミニズムというアクチュアリティーを確保しておくことでなんとか言い訳している感がある。実際大学では現代哲学教える人が目立つので、それを学ぼうとしてしまうのはしょうがないのかもしれず、こんな言い訳しなくてもいいのかもしれないけれど、でもやっぱりただのフォロワーみたいにはなりたくない。こういう変にねじくれた心持ちになるのはどうしてだろう。

あとこれもひねくれに要因していることだけれど、数3の参考書を解いたりしている。なぜなら数学ができないことが人間(女)の欠陥のように語られることに反抗したいからです。でも今書いていて、それなら「数学ができなくても別にいいじゃん!」って開き直るべきなのでは?「できる」側になったらできない人々を見下すことになるのでは?と思いました。ここでまたひねくれが入ります。

もうなんか疲れていて文章のテンションがおかしいのはわかっている。これだ!という小説って実はこの世にそんなにないのかもしれない。

もっと考えて大学を選んで無理やりにでも家を出ればよかったとちょっと後悔している。もうなんか家から脱出する前に死ぬ気がしています。

 

 

2020-04-16(アンナ・カヴァン/ピアノの神童/パパ的なもの)

 

今に至るまでずっと抱きつづけているその思い——この世のどんな人のであれ、良識というものにいったいどれほどの意味があるというのだろう。その良識を受け入れたために、私はたいへんな苦しみに耐えなければならない状況に追い込まれたのだ。この苦しみは今も、そしてこれからも続く。いったいいつまで?——この苦しみは、いったいいつまで続くのか?

 

アンナ・カヴァンアサイラム・ピース』山田和子訳、ちくま文庫

 

私は働くために外に出る必要もないし、就活もないしバイトがなくなってしまったくらいで、とても恵まれている方だということはわかっているけれど、それでもストレスはかかる。まあ母親としかと話さない日が一週間以上続くとだいたい疲れてくるのはわかっていたし、今はPMSという災厄のせいにしておこう。こういうときに無心でできる作業は、簡単な計算、写経、和訳くらいで、今日はそれさえも、なんにもできなかった。

岡﨑乾次郎『抽象の力』を本論まで読んだ。この間知ったばかりのポアンカレなどの非ユークリッド平面の話が出てきた(具体的には違う位相空間にあるものを同一平面状に構成したような作品があるそうなのだ)。あとは、奥泉光シューマンの指』がとても面白かった。ピアノの神童ものは面白いものが多い(『蜜蜂と遠雷』しかり、『破滅者』しかり)けれど、これはシューマンへの深い言及がストーリーにちゃんと絡まっていてよかった。そういえば『千のプラトー』中巻の最後はシューマンで締めくくられている。この第11プラトーリトルネロ論はとても好きなのだけれど、あまり論じている人がいない(鈴木泉くらいだと思う)のは、ここはガタリが作ったという部分が大きいからなのだろうか?リトルネロは「永遠回帰」にも語源が共通しているし、けっこう重要なところだと思うんだけどな。バルトもシューマンが好きらしい。『シューマンの指』の主人公の一人、永嶺修人がシューマンの《ダヴィッド同盟舞曲集》について、グレン・グールドはこれを弾けないと思う、というところ

「ここにはたくさんのお話があるでしょ?いろんなところにお話が隠されている。ピアニストはそれを次々と見つけていかなくちゃならないんだけど、グールドって人は、一つのお話しか聴けないんだと思う。というより、自分がお話を作りたいんだよ。彼はお話を作り過ぎる」

というような議論がこの本ではたくさんあるのだが、妙に納得してしまう。

無料公開されていた榛野なな恵papa told me』を15巻くらいまで読んだ。だいたい父娘の物語は私のウィークポイントであることが多いのでちょっと警戒していたけれど好きな漫画で、洋服や小物がとても素敵だった(何巻か忘れたけど、巻末に著者のロンドン旅行記みたいなのがついていてそれがとてもよかった)。ツイッターで「セックスなしで精神的・経済的に庇護してくれる人」を理想化してしまうということを言っている人がいて、私はまさにそれだと思った。セックスなしで精神的・経済的に庇護してくれる人、それです。いるわけないけども。

2020-04-08(aiko的恋愛/否定としてのセクシュアリティ)

 

 

 

予想だにしないことが世界には起こるものだなぁ、とどこか他人事のようにおもう。しかし一ヶ月間外になんの用事もないというのは初めてのことで、あれもこれもやらなくちゃとすこしわくわくしている、わくわくするどころでないとはわかっているのだけれど。

 


サブスク解禁されてからまだまだaikoを聴き続けているので(あとはプルーストを読んでいる影響もあるかもしれない)、恋愛脳になってきた。えりあしの歌詞とか凄いもんね、「ぶったりしてごめんね/愛しくて仕方なかった/ねぇ泣き真似してごめんね/困った顔が見たくて」って、でもわたしは恋愛をするとすればこれくらいの湿度になってしまうだろうし、というかそういうのが恋愛でしょ?と思っている節がある。『嵐が丘』『サロメ』『外科室』みたいなのが恋愛でしょ??

うさぎのぬいぐるみを新たに迎えたのでふわふわを触りながら、そういった恋愛の物語とセクシュアリティ論で語られる性愛との齟齬に想いを馳せています。先月の『思想』のバトラーのインタビューを読んで、「セクシュアリティにパフォーマティヴィティを用いたことはない」って言ってるのは基本的だけどわりと重要だと思った。異性愛規範&資本主義体制に抗うことが目的ということは重々承知のつもりだけれど、性的指向を「アイデンティティー」として集まるということがよく分からなくて、でもたとえば犬好きのコミュニティみたいなものだと思えばいいのかもしれない。だとしたらそもそもわたしは好きなものが同じ人と群れるという習性を持ってないし、むしろそういう同質集団を忌避してしまうところがあるので、なぜ引っかかるのかは説明がつく。誰を好きになるか、あるいはならないか、はもしかしたら否定の形で決まるものかもしれない、と最近は考えている。

 

 

 

2020-04-01(金毘羅/待つこと)

 

 

 

 

私は何もかも他人事のような涼しい顔をし、人を罵倒しながら、それを他人にユーモアと感じさせ、なおかつ自分がいつも一番正しいいい立場にいる事、を母から期待されていました。それが「男」になる方法だったからです。

 

笙野頼子『金毘羅』

 


これはまだ途中だけど面白すぎる小説。本を読んでいて人に勧めたいと思うことはほとんどないのだけれど、これは全人に勧めたい。金毘羅が一人称なんて、そんなことアリなんだ。

 


その前まで読んでいたアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』もとても良かった。

 

 

ただ待っている以外に何もすべきことがないまま家にこもっているのは、なんと苦しいことなのだろう。待つこと——それは、この世の何よりも難しいことだ。待つこと——自分の疑念を、恐れを、揺れ動く希望を打ち明けることのできる人間がまったくいないままに。待つこと——

 


妙に現実味のある文章。

 


しかし働いている時間が長いと読み書きする時間は短くなり、ものに対する解析度が低くなるのは確かで、忙しいのを言い訳にして自分の感情や部屋の散らかりを無視する。この状況でそこそこ密集空間にいて大丈夫かな?とは思うけれど、わたしにできることは限られている。働き先の人とは、ほとんど毎日会っているのにもかかわらずわたしにしては珍しいことについ喋りすぎてしまうけれど、話が合うというわけでも無さそうだし、不思議だ。喋りすぎて毎日寝る前にぼーっとした飽和状態になってしまうので困っている。

2020-03-23(ジルベルト/クリストファー・ロビン)

 

 


「それがわたしにどうしたっていうの、ほかの人の考えることなんかが?感情の問題で他人を気にするなんて、グロテスクだと思うわ。人は自分のために感じるので、世間のためじゃないわ。ほとんど気晴らしのないお嬢さまが、たまの楽しみでこの音楽会に行くのよ。世間を喜ばせるためにお嬢さまの楽しみを奪うことなんかできやしないわ」

 

プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅠ』253頁(鈴木道彦訳)

 


お嬢さまのたまの楽しみの音楽会にも行けない状況だけれど、こういう心持ちでやっていきたい。

 


Switchのどうぶつの森がちょっと羨ましいので、スマホゲームのどう森を再びインストールした。DS、3DSWiiと三作すべて買ってもらってやってたけど、結局最後まで家を拡張できた試しがなく、博物館をコンプリートしたあたりでやめた気がする。だいたい飽き性なので続かないのと、ゲームをそこまで好きというわけでもなくて暇つぶしくらいに思っている。そう、今は暇なのだ。無課金でやるにはアイテムなどの入手のために時間を置かなければいけないのでちょうど良い。

 


この辺りは子供の多いエリアなので、近くの図書館も入ってすぐが児童書のコーナーになっている。子供の時はあまり読まなかった岩波少年文庫の棚を見ていると、『クマのプーさん』があったので借りて読んだ。石井桃子は名訳者として、江國香織金井美恵子のエッセイに書かれているけれど、不幸なことにそれを自分の幼少期の体験としては実感していなかった。(ところで、江國香織金井美恵子に共通点があるとすれば、幼少期の読書体験にあると思う。二人とも絵本に関するエッセイを書いているし) それで読んでみて、まず語りが普通の三人称ではなくて、クリストファー・ロビンの父親が、クリストファー・ロビンにお話を聞かせるという形式の巧みさに驚き、でも何よりプーやコブタやフクロやカンガやルー坊が愉快で、あまりの愛おしさに泣きそうになってしまった。プーは頭がわるいのでほとんど禅問答みたいになる会話たち、そしてやっぱり素晴らしい翻訳。

 


「こういうところなんだ、奇襲があるのは。」と、クリストファー・ロビンは説明しました。

「なんの  木の種類だって?」プーが、コブタにささやきました。「ハリエニシダの木?」

すると、フクロがいつものえらそうなようすで、

「あなた、奇襲を知らぬのですか?」

「フクロ。」と、コブタは、きびしい顔で、フクロのほうを見やって、いいました。「プーの話してたことは、まったくこっちの話なんだ。なにも、きみが——」

「奇襲というのは、一種の不意打ちです。」と、フクロがいいました。

「ハリエニシダの木だって、ときには、そうだから。」と、プーがいいました。

「奇襲っていうのは、ちょうどいま、ぼくもプーに説明しようと思ってたように、」と、コブタがいいました。「一種の不意打ちなんだ。」

「とつぜん、だれかが、あなたにとびかかってくる、それが奇襲です。」とフクロがいいました。

「とつぜん、だれかが、きみにとびかかってくるだろ?それが奇襲なんだよ。」コブタは説明しました。

こうなると、プーはもう、奇襲とは、どんなものかわかってしまったものですから、いつか、じぶんが大きな木からおちたとき、ハリエニシダの木が、とつぜん、じぶんにとびかかってきて、すっかりとげをぬいてしまうまでには、六日もかかったといいました。

「わたしたちは、ハリエニシダの木の話をしているのではありませぬ。」フクロは、すこしおこっていいました。

「ぼくは、してるんだ。」と、プーはいいました。

 

この本をまとめるにあたって、(…)うんざりするほどひとつのことしか言っていないように思える。それは、わたしはつねにクリストファー・ロビンを愛するが、現実のクリストファー・ロビンを知りたいという欲望に打ち勝つことはできず、結局のところ、そのふたりのあわいにあるものについて永遠に語り続けていたい、という欲望である。

 

瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』あとがきより

 

 

 

 

 

 

 

 

2020-03-21(犬/映画の細い女)

 

 

 

 

家に誰もいないので今日は静かに過ごせると思っていたのに、隣の家が石を削るような工事をしていたのでうるさくて外に出る。でも良い天気だ。さいきんまた徒歩圏内の図書館のカードを登録し直した。小五〜中二くらいのときにはよく利用していたのに、中三は勉強で、高校は部活と行事で忙しかったのですっかり足が遠ざかっていた。この時期にあまり本を読めなかったことを少し後悔しているが、本を読むよりやりたいことがあったのでしょうがない。しかし読む本の種類が変わってから来てみると、小さい図書館ながら買えないけど読みたいと思っていたような本がいくつかあったので嬉しい。四冊ほど借りる。外のベンチで堀江敏幸の『彼女のいる背表紙』をぱらぱらと読んでいると、ヴァージニア・ウルフの『ある犬の伝記』について、「犬好きではなく犬になりたい人によって書かれた本」とあって、あ、と思う。松浦理英子の『犬身』はおそらくこの本を念頭に置いているにちがいない。『犬身』に関する書評や評論は可能な限りすべて目を通したはずだが、これに触れているものはなかった。朱尾は狼=ウルフなのかもしれない。

 


保坂和志の『小説の自由』も借りた。小津の映画と彼がよく読んだ小説についての記述があった。タイミングがいい。

東京物語』へのオマージュだという侯孝賢の『珈琲時光』(なんていいタイトルなんだろう)に出てくる一青窈があまりに細いのでまた落ち込みかけたけれど、いい映画だったので大丈夫だった。さいきんの邦画は女性が針金みたいに細いことが多くて、肉のない二の腕や太ももばかりをみてしまう。バイト先にいる細い人もずっとみてしまう。わたしは標準体重に照らせばべつに太っているわけではないが、この愚鈍な腰回りが嫌で仕方ない。

 

アセクシュアルのコミュニティサイトでは、「ケーキを一緒に食べる」という言い回しがよく使われるらしい。これはなぜかというと、「セックスよりいいものって何?」という一人のメンバーの書き込みに、「ケーキを食べること!」という答えを多くの人がしたことによるらしい。ケーキ食べるほうが断然いいに決まってるじゃん。