2020-04-08(aiko的恋愛/否定としてのセクシュアリティ)

 

 

 

予想だにしないことが世界には起こるものだなぁ、とどこか他人事のようにおもう。しかし一ヶ月間外になんの用事もないというのは初めてのことで、あれもこれもやらなくちゃとすこしわくわくしている、わくわくするどころでないとはわかっているのだけれど。

 


サブスク解禁されてからまだまだaikoを聴き続けているので(あとはプルーストを読んでいる影響もあるかもしれない)、恋愛脳になってきた。えりあしの歌詞とか凄いもんね、「ぶったりしてごめんね/愛しくて仕方なかった/ねぇ泣き真似してごめんね/困った顔が見たくて」って、でもわたしは恋愛をするとすればこれくらいの湿度になってしまうだろうし、というかそういうのが恋愛でしょ?と思っている節がある。『嵐が丘』『サロメ』『外科室』みたいなのが恋愛でしょ??

うさぎのぬいぐるみを新たに迎えたのでふわふわを触りながら、そういった恋愛の物語とセクシュアリティ論で語られる性愛との齟齬に想いを馳せています。先月の『思想』のバトラーのインタビューを読んで、「セクシュアリティにパフォーマティヴィティを用いたことはない」って言ってるのは基本的だけどわりと重要だと思った。異性愛規範&資本主義体制に抗うことが目的ということは重々承知のつもりだけれど、性的指向を「アイデンティティー」として集まるということがよく分からなくて、でもたとえば犬好きのコミュニティみたいなものだと思えばいいのかもしれない。だとしたらそもそもわたしは好きなものが同じ人と群れるという習性を持ってないし、むしろそういう同質集団を忌避してしまうところがあるので、なぜ引っかかるのかは説明がつく。誰を好きになるか、あるいはならないか、はもしかしたら否定の形で決まるものかもしれない、と最近は考えている。