2020-04-26(恥/副言/数学)


かなりのことを「面倒くさい」の一言で片付けてしまう一方で、へんに向上心のあったりする自分を自分でも不思議に思うのだから、他人からみたら私の行動は不可解でしかないのだろう。成人式とか同窓会的なものを面倒だから全部すっ飛ばしてツイッターやインスタのアカウント(いわゆるリアアカ)も消していたら、なんか触れちゃだめなヤツというカテゴリーに入れられていた。

生理前後の二週間くらいずっと調子悪い気がするので、実質人生のほぼ半分が調子悪いことになる。加えて最近は一定量以上(たぶん標準量の一食分の半分くらい)の固形物を摂取すると必ずお腹が痛くなるので本当に体が煩わしくて仕方がない。目が痛くなったり頭が痛くなったりお腹が痛くなったりしなければもっと本を読めるのかな。

もうドゥルーズ研究者のフォロワーになりたくない、ポストモダンとか恥ずかしいと思い続けているのに(2000年生まれのわたしでさえ)、江川隆男の『すべてはつねに別のものである』をうっかり買ってしまい、うっかりしっかり読んでしまい、面白いので困っています。

人間は、自由意志によって擬人化されて定義されるよりも、むしろあらゆる条件づけを変形し転換しようと大地を這いずり回る動物として把握されるべきであろう。

こんな文章がポンと出てくるんだから。対立としての差異=〈対言〉の論理ではなく、〈副言〉としてジェンダー論が考えられたら面白い(二項対立を脱構築!というお決まりの文句から逃れられるから)とは思ったけれど、肝心の器官なき身体や情動を語るところで、少し抽象度があがって煙に巻かれた感じがしたので『アンチモラリア』や『エチカ』講義が読みたくなってしまった、まんまと。あと結局ベーコン論とかニーチェ論とか買う羽目になると思われる。
来月はエリザベス・グロスの翻訳が出るので心待ちにしていますが、これもドゥルーズ関連です(でもフェミニズム論でもあるからそれはいいの)。しかし今日買ったのは、『監獄の誕生』と『感性的なもののパルタージュ』と高橋哲哉の『デリダ』…ポストモダンばかり読んでいるのも恥ずかしいですが、読んでない方が恥ずかしいと言い聞かせています。絶対にそんなことはない。フェミニズムというアクチュアリティーを確保しておくことでなんとか言い訳している感がある。実際大学では現代哲学教える人が目立つので、それを学ぼうとしてしまうのはしょうがないのかもしれず、こんな言い訳しなくてもいいのかもしれないけれど、でもやっぱりただのフォロワーみたいにはなりたくない。こういう変にねじくれた心持ちになるのはどうしてだろう。

あとこれもひねくれに要因していることだけれど、数3の参考書を解いたりしている。なぜなら数学ができないことが人間(女)の欠陥のように語られることに反抗したいからです。でも今書いていて、それなら「数学ができなくても別にいいじゃん!」って開き直るべきなのでは?「できる」側になったらできない人々を見下すことになるのでは?と思いました。ここでまたひねくれが入ります。

もうなんか疲れていて文章のテンションがおかしいのはわかっている。これだ!という小説って実はこの世にそんなにないのかもしれない。

もっと考えて大学を選んで無理やりにでも家を出ればよかったとちょっと後悔している。もうなんか家から脱出する前に死ぬ気がしています。