2019-09-05(少女/山梔/モイラの裔)

 

  男が少女と呼ぶときには大抵、無垢な、まだ誰の「もの」でもない若い女性のイメージを指す。例えば澁澤龍彦の『少女コレクション序説』では「一般に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在」として少女が定義されている。
けれども、少女自身が自らを少女として名乗るとき、そこには少女としての自意識があり、決して男のために存在するのではなく、むしろときには自らの魅力をひきたたせるために男を利用し、この世をサバイブしていく明確な意志を持つ者としてある。そんな「少女型意識」を、高原英理は「自由」と「高慢」があわさった「素敵」への希求と『少女領域』で定義した。この本は、11の「少女型意識」に関する作品を取り上げる。もうこれ以上説明的なものを書きたくないので書かないが、冒頭で、いわば少女型意識の「誕生」として紹介されているのが野溝七生子の『山梔』だった。それでまず『山梔』のほうを先に読んだのだけれど、本当に好きな小説だった。

さいあくな家父長制の環境のなかで、それでも歌うようにくるくると繰り返される言葉のリズムが美しく、阿字子の、本当はみんなにわかってもらいたいし、愛されたいし、子どものままでいたい。だけどみんなにわかってもらえるような言葉を使えないし、うまく恋愛もできないし、家父長制はさいあく、もう死んじゃいたいという気持ちが、時代は違えどいたいほどわかる。(こうやって共感ベースで読むとどこからか批判の声が聞こえるが、共感(=物語を自分と身近に感じること)なしに読むことなどできるのか?) 
姉の緑や妹の空(くう)との会話も楽しくって、もう図書館に返してしまったから適切な箇所を引用できないのだけれど、例えば、(緑ちゃんはみいちゃんと読む)

「緑ちゃん、緑ちゃん、言葉のいらない国に行きましょうね。こんどは、いつ。」
「また、秋ね。」
「ええ会いましょう。」

ほかにも、阿字子の「恋愛なんて、野の小川にでも流れてしまえば好いと思ってよ」とか、「私は、ここに止まっていたい。大人になって、お魚のように、鈍感になるのが恐ろしいんですもの」といった台詞にうっとりとときめいてしまう。ほんとうに、恋愛なんて野の小川に流れてしまえばいいし、お魚のように鈍感になりたくない。
成人式にはいかなくてもいいことになっているのだけれど、12月に振袖を着て写真を撮らなくてはいけなくって、今一番嫌なことがそれなんだけど、もともと写真を撮られるのが死ぬほど嫌いだし、髪伸ばしたり着物着たりするのが面倒、あとそういう行事的なものへの嫌悪がある、という理由をつけていたけど、もしかしたら大人になることへの抵抗があるかもしれない。馬鹿馬鹿しいけれど。いやでも、二十歳になることはどうでもよくって、そうやって周りが大人になったね、と祝うことが気持ち悪い。男なら写真撮らなくても許されるのかと思うと余計に腹が立つ。本当に嫌だな、失踪しようかな、と考えている。失踪したらどうなるのだろう。家から放逐されて金銭的援助を絶たれるのだろうか。

話が逸れてしまった。

暴力的な父親と結婚してしまった母の「阿字子や。女が、ほんとに、ちゃんと食べて行けさいすれば、結婚なんぞするものではありませんね」という言葉は、今はそれが実現できる世界であってほしいよ。

矢川澄子の解説も本当によくって、

由布阿字子の共同体的規範との格闘は所詮阿字子の敗北に終るさだめであったけれども、二十一世紀からの少女たちは、それ以外の道をかならず見出すはずだ。時代は確実にそこまできている。いな、そうでなければ先人たちの苦労は何のためにあったというのだろう。

いま暮らしている環境は良いとは言えないけれど、こうやって本を読みながら、なんとかやっていきましょうね、という気持ちになった。

 

 

 

追記のようなもの

この間、松野志保の『モイラの裔』(このタイトルは森茉莉の『甘い蜜の部屋』から来ていて、『甘い蜜の部屋』も『少女領域』で取り上げられる作品だ)について、「ちょっと自己陶酔みたいなのが強すぎると思った。「ゴシックな少女」としての自意識。」と書いたのだけれど、自意識と自己陶酔は違う。わたしは少女であることの自意識が書かれているのは好むけれど、それがただ自己愛に転じて、さらにその自己愛を表現するものとしての作品はあまり好まない。自己愛を表現するというより自己愛を満たすといったほうが正確かもしれない。まあ簡単にいってしまえば、書いている自分にうっとりとしているような意識が透けてみえるものはちょっとなあという。もちろんここでは、『モイラの裔』がただそういうことを考えるきっかけになったというだけで、これは好きか嫌いかと聞かれれば好きだし、そういう観点でいえばあまり好きでないと思ったものがほかに数多ある。ただ、小説と短歌と詩と批評と…を一緒くたにしていっていいのかはわからない。