2021-01-16(エゴ/鏡/エゴ)


 書くかどうか躊躇われることを、これから書く。


 ネットをやると、いかに自分がありふれているか、替えのきく存在かということがよくわかる。好きなものの共有が、コミュニケーションの手段となっていることも、それによってもっと良いものを知るときがあることも、ゆるやかな繋がりみたいなものが生まれることが現実からの逃げ口となってくれることがあることも、知っている。固有名詞を介して発言しているのだから、好きな作家や音楽家がかぶることはそう珍しくない。むしろ、同じものを好きな人が集まっているといってもよかった。それが一般にメジャーなものでない場合、喜ばしいと思うべきだった。それにしても、あまりにも似すぎていると思う人にすれ違ってしまったときに感じたのは、はっきりいって、気味の悪さだった。選ぶ本があまりにも似ていた。ツイッターはそのいいね欄やリプライからその人の見る世界を一部見ることができるが、いちばん不快であり不気味だったのは、彼女がいま付き合っているであろう人物が、私が高校生だった時にわりと親密な人であったことだった。茅野という名で呼ばれていた人物が急に私と触れてしまったことが、そしてその鏡写しのような人物がいたことが、大きな衝撃だった。内容だけでなく形式もよく似ていた。ここで日記を書いたり、他人の言葉を引用したりするのすら、同じだった。すべて後追いしているのは彼女の方に見えるが、そう考えてしまうことも、何よりそのことにこだわる自分のことも何もかも不快だった。過去形にしたがいまも不快である。何も見なかったことにして内にしまっておけずに、こうして書いてしまうことも。でも書かないと腐ってゆくと思った。
 実際の知り合いとネットで接触しないようにあんなに気をつけていたのに、あまりにも偶然で防ぎようがなかったとはいえ、もうネットを現実の私と切り離された安全な場所と見なすことはできなかった。たとえアカウントや名前をかえて転生しても、また同様のことは起こりうる。もう知らなかったことにはできないのだから、私はひたすら先へ、みえないところへと急ぐ。

 

〈語ること〉の極度の受動性。その最後の避難所においてさえも、〈語ること〉は他人にさらされ、忌避しえない仕方で徴集される。自己にくり返し転落する確信とは逆に、唯一性は、自己との非合致、自己に休らわないこと、平穏の不在をつうじて意味する。自己同定することも知に対して現れることもなく破産する痛点なのだ。[…]私と命名される何かが存在するわけではまったくなく、「私」は発語する者によって語られるのだ。代名詞は発語する唯一性をすでに隠蔽し、ある概念にこの唯一性を包摂し、唯一者の仮面ないしペルソナしか指示しないのだが、概念から逃走する私、言い換えるなら、一人称で語りながらも決して名詞に転換されることのない私はかかる仮面を打ち棄てる。一人称で語るこの私はなぜ名詞に転換されないのか。それは、この私が徴しを贈与することで与えられる徴しだからだ。


エマニュエル・レヴィナス存在の彼方へ』、合田正人訳、講談社学術文庫、144頁

 

エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ——ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気。

 

サリンジャーフラニーとゾーイー』、野崎孝訳、新潮文庫、38頁