2019-11-10(白い舟/日記/女)

 

 

あいも変わらずにほとんどの時間を自分の部屋のベッドの上か机の前ですごすことに、飽きを通り越して時間の感覚をうしなって、とくに午後まだ太陽がある時刻のことをいつも思い出せないでいる。

考えていることもずっとおなじである気がする。読む本だけが変わるが読んだ言葉はわたしの表面をうわすべりしていくだけで少しも取り込まれない。

これでいい 港に白い舟くずれ誰かがわたしになる秋の朝/大森静佳

かと思えば、ツイッターで流れてきた言葉がとうとつに胸をうつ。『カミーユ』は秋の歌集だから枕元に置いてある。あとは金井美恵子の短編と『ヒロインズ』を置いて、だいたい寝る前にはこれらを読む。『ヒロインズ』は出てくる固有名詞や考えていることがあまりに馴染み深いもので、自分の日記を読んでいるみたいに錯覚する。

N子の日記は時間の網目のような、横糸と縦糸が織りあげた一枚の時と思い出の交錯する柔らかな布のように不思議な無時間の中で平板にひろがる。彼女の十年間というものを、略歴風に記すとすれば、それは多分、二、三行で終わってしまうのではないか。すくなくとも日記を読むかぎりにおいてはそう思われる。現実のおそるべき単調さ。

 金井美恵子「日記」

 

 ベッドに入って、本と戯れている。役に立たない快楽をむさぼる。ただページをぱらぱらめくるだけでもいいと、自分に許可を下す。病気だから。何かを深く掘り下げるなんて今は無理。

 

エクリチュール・フェミニンは美学的には自動筆記とかなり密接なつながりを持つ。身体で書くこと、身体を通して書かれるものであり、男性的であるとされる論理よりも、生々しく感情的であることが優先される。そして何より声によって特徴づけられる。話し言葉パロール。法の外にあるテキスト。

ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』

 『文學界』に載っていた町田康伊藤比呂美の対談について、「私」のことを書く詩は世界が狭いからつまらなくなりがちで、それでも面白い物があるのは結局その人の生活が面白いからなのではという町田の言いたいことはとてもわかって、でも町田が「自分」が稀薄で自分の文体とかわからないというのは逃げである、というようなことをツイッターに書いた。言ってはいけないことかもしれないが、これはありきたりな男性性/女性性の話でもあると思っている。つまり、女性には生活が面白くなる要素=妊娠や出産があり、男性にはそれがないので「自分」の身体性のようなものが稀薄になってしまうらしいこと。この対談ではそこまで言っていなかったかもしれないが、でも実際伊藤はそういう題材で書いてきた。

身体と書くことと女性であることの関連をずっと考えている。