2020-12-13(風/他生の記憶)

 

好きとか嫌いとかなくたんたんと先へ泳いで行ける人、泳ぐ能力はあるけれど陸地を離れてしまうのが怖くてあんまり遠くへ行かれない人、好きだから頑張って泳いでいく人、海へ憧れ続けて陸にいる人、海とは違う方向を見るようになった人。

 

『アダンの風』をつくった青葉市子は、文字通り海へふかくふかく潜り込んで、そこで触れてしまった世界の核のかけらの一粒を持ち帰ってきれいに磨いてみせてくれる。

 

〈かくてわれらは死せるなり〉水のごとき風に目覚めて他生の記憶は/井辻朱美

 

2020-11-22(あき/あと)

疲れたわ、と彼女は言う。
たった三キロ歩いただけじゃないの、とエリサベスが言う。そういう意味じゃない、と母が言う。あたしはもう、ニュースに疲れた。大したこともない出来事を派手に伝えるニュースに疲れた。怒りにも疲れた。意地悪な人にも疲れた。自分勝手な人たちにも疲れた。それを止めるために何もしないあたしたちにもうんざり。むしろそれを促しているあたしたちにもうんざり。今ある暴力にも、もうすぐやって来る暴力にも、まだ起きていない暴力にもうんざり。嘘つきにもうんざり。嘘をついて偉くなった人にもうんざり。そんな嘘つきのせいでこんな世の中になったことにもうんざり。彼らが馬鹿だからこんなことになったのか、それともわざとこんな世の中を作ったのか、どっちなんだろうと考えることにもうんざり。嘘をつく政府にもうんざり。もう嘘をつかれてもどうでもよくなっている国民にもうんざり。その恐ろしさを日々突きつけられることにもうんざり。敵意にもうんざり。臆病風を吹かす人にもうんざり。
臆病風には吹かれるんだと思うけど、とエリサベスが言う。
正しい言葉遣いにこだわることにもうんざり。

 

アリ・スミス『秋』、木原善彦


茅野は痕跡を残しすぎた。うんざりして消えようにも消えきれないかもしれない。本当に、ちゃんと距離をよくとってやっていかなければ。

 

「精神病?ばかばかしい!」バディをあざけるように笑ってやった。「もし、正反対の二つの素晴らしいものが同時に欲しいと思うことが精神病なんだったら、私はまったく精神病でけっこう。そして、その二つの場所を行ったり来たり飛び回って残りの人生を送るつもりよ」

 

シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』、青柳祐美子訳

 

2020-11-20(夢/胡桃の殻)

 

  毎日夢を見る。色の付いた夢。五感を刺激し続ける、まるで現実のような、ひどい悪夢。いつの間にかその悪夢の中に紛れ込んでしまい、気が付くと逃れようとしてももう逃れられない。夢はどんどん私の生活を浸食し続け、今ではそれに支配されて暮らしている。現実世界の出来事も記憶も、殆ど消え果てている。

 その夢の中の私は絶えず死の危険に曝されていて、いつか覚めるからと平然としているわけにもいかなかった。死ねば現実の肉体が目覚められなくなり、現の体は朽ちるまでただ眠り読ける、という、設定になっている。

 その夢は何回も繰り返して見る。千年に二回または一秒間に五回、外の時間は判らないまま延々と続く。それ故に安易な逃げ道はない。但し夢を見るものはその繰り返しの中で、夢を、練習する事ができる。例えばRPGを繰り返してそのキャラクターが成長して行くように、繰り返しの中で夢との関わり合いを変容させ、同時に自分自身も変わって行く。 ——あまりに延々と練習をしたので、私はある程度までは夢をコントロール出来るようにさえなっているのである。いや、だが今のところ、それらが与える効果は微々たるものでしかなく、それが最悪の悪夢である事にも何の変わりもない。

 

笙野頼子『レストレス・ドリーム』

 

 

 

 

  眠れぬ夜。すでに連続三日目だ。寝つきはいい、でも一時間もすると目が覚めてしまう、頭を見当ちがいの穴に突っ込んでいたかのように。すっかり目覚めてしまい、全然眠らなかったか、紙一重で眠っていたかのような感じが残る。あらためて寝つこうとする仕事が待っていて、眠りから追い返されるような感じだ。そのあとは一晩中五時ごろまでそんなふうだから、眠ってはいても同時にいろんな強烈な夢がわたしを目覚めさせている。わたしの側でわたしはちゃんと眠っているのに、わたし自身はつぎつぎに夢と格闘しなければならない。五時ごろには眠りの最後の痕跡も使い果たされて、夢を見ているだけなのだが、これは目覚めているよりももっと消耗する。要するに一晩中を、健康人が本当に寝入る前のしばらくの間そうであるような状態で過ごすわけだ。目を覚ましたときには、あらゆる夢がわたしのまわりに集まっているが、それらの夢のことはあまり詮索しないようにしている。明け方には、枕のなかに溜め息をつく、今夜のための希望はすべて消えてしまったのだから。毎夜深い眠りから引き上げられ、まるで胡桃の殻に閉じ込められていたかのように目覚めたあの夜々のことを考える。

 

カフカ『夢・アフォリズム・詩』、吉田仙太郎訳

 

 

 

毎日8、9時間眠っているが夢はほとんどみない。悪夢を見るよりましかと思うが、真っ白な百合を見ているうちに百年たってしまう夢や親指がペニスになってる夢をみてみたい。

2020-11-14(飛ぶ孔雀/好物)

 


山尾悠子金井美恵子のサインが入った『飛ぶ孔雀』が欲しいというなんともミーハーな欲望に逆らうことなく、浅草橋のパラボリカ・ビスへ。基本的に半径が家〜バイト先のせまいせまい生活圏内にいるのでちょっとした遠出である。体調が悪かったこともあり前日からナーバスで、もしお金を前払いしていなかったらたどりついていなかったかも知れない、が無事にたどりついた。浅草橋は手芸屋とかなんか細々とした材料を売っている店が多いらしい。

 


展示じたいは中川多理の「薔薇色の脚」と、ほかいくつかの脚の人形と、山尾悠子の掌編があるのみでこぢんまりとしたものだったが、昔の『夜想』や『銀星倶楽部』のバックナンバー、あと今井キラ(この人が挿画を書いている『女生徒』の絵本を高校の図書館で見て以来ファンである)の画集や小物、劇団イヌカレーの葉書、鳩山郁子のサイン入り本などなど、素敵なものがたくさんあって幸福空間だった。好きなものは所有したい性質なのでたくさん買い求めた。

感染症が流行り始めた頃から、あ、人はいつ死ぬかわかんないな、ということがありありと感じられるようになり、欲求をあまり我慢しなくなったような気がする。無駄に自分に負荷をかけがちみたいなところがあるので、破産しなければいいくらいの心持ちでいいことにしている。

 


夜想』の少女特集(2013年)は充実の内容。千野帽子の「黒い文學少女のためのうぬぼれ鏡」というブックセレクトとか、境界性パーソナリティ障害のこともこの特集に盛り込むこととか、たのしい雑誌ってこういうのだなと思う。

 


好きなものを主体的に選んでいくことを意識するようになったのはごく最近のことだ。私はこれが好きと主張し続けていないとどんどん取り込まれてしまうような感覚がある。最初はぜんぶ母の好みで、今もまだ完全に抜けきってはいないけれど、じょじょに抜け出せていっていると思う。今はたぶん潔癖すぎるくらいでちょうど良い。

 

 

 

2020-11-05(会わない/日没)

大半の人とは、会わないまま死んでいく。連絡を取ることも噂を聞くこともなく、中には知らないうちにほんとうに死んでしまう人もいる。だとしたら、会うことがない人と、死んでしまった人と、どこが違うのか。[…]

会えるかもしれない、と、わたしは思い続けることができる。会わなかった年月の分、年を取った彼らと。たぶんそれが、生きてる人と死んだ人の違うところ。

 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』

 

 

 

わたしは、自分に会いたいと思う人などこの世にいないだろうと思いながら生きてきたし、今もそうだ。

 

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』

 

 

 

関西弁が使われている小説を読むと、会話文でいわゆる女言葉を避けるには方言という手しかないのだろうか、と思う。川上未映子柴崎友香津村記久子西加奈子も。村田沙耶香はたぶん語尾を伸ばすことで処理している。

 

 

 

ここ数日漫画ばかり読んでる。なんで漫画って学校で読んじゃだめなものみたいな感じだったんだろう。高校の図書館にはたくさん漫画があって、そこでパラダイスキスとか三月のライオンとかチェーザレとかNANAとか読んだ。君に届けとかもっといろいろ読んどけばよかった。でもやっぱり2000年より前に書かれたものに惹かれることが多い。誰かに生まれ変わりたいと思ったことはないけど、もっと前の時代に生きたかったとは思う。

 

 

はやくなった夕暮れの部屋で、誰にも会わないまま死ぬのだろう。

2020-11-01(世界のみかた/ことばで縫合しきることのない境界)

 

一種のドーピングのようなものなのだ。音楽を聴いていないと手も足も出ない時がある。物理的にも、そして数分をただ息をしてやり過ごすだけのことにさえも。けれど音楽を聴くと、それが鳴っている何分かだけは、息を吹き返すことができる。アザミはときどき、自分はその何分かをおびただしく重ねることによって延命しているだけだと思う時がある。

 

津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!』

 


本を読むことは他人の目で世界を見ることで、映画を観ることはまるごとちがう世界に行くことで、音楽を聴くことは世界とじかに繋がること。

 

 

 

ハミングは音の響きとして繰り返される。リトルネロ、夢というものが意識が回収しきれずにいる綻んだ苦しみをすっぽりと覆い尽くすものであるのと変わらずに、ことばで縫合しきることのない境界をさすり続ける。語られうることばとはすべて暴力的な音楽であって、針の先が肌理を突き破らなければ傷口を縫い合わせることができないように、そのように絶え間ない不快感を不快感で歌いなおすかのように、書き、語る。

 

八柳李花「音楽と憎しみ**」『Cliché』

 

 

 

「でもね、本当に好きな音楽があればずーっと聴いてたらいいと思うよ」

2020-10-25(薔薇の名前/ボルヘス/遠子)

「なぜですか?一巻の書物が述べていることを知るために、別の書物を何巻も読まなければいけないなんて?」
「よくあることだよ。書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。アルベルトゥスを読んでいるときに、後になってトマスの言うことが、どうして想像できないであろうか? あるいはトマスを読んでいるときに、アヴェロエスの言ったことを、どうして想像できないであろうか?」
「そうですね」私は感心してしまった。そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語り合っているみたいなことが、私にもわかった。

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』下巻、河島英昭訳

 

「〔…〕わたしは、この世のありとあらゆる物語や文学を食べてしまうほど深く激しく愛しているごくごく普通の可憐な高校生で、ただの文学少女です」
「一般的な女子高生は、いきなり本のページを引きちぎって、むしゃむしゃ食べたりしないと思いますけど。少なくともぼくの十六年の生涯で、そんな珍妙な女子高生は、遠子先輩以外見たことないし聞いたことないですよ」
遠子先輩がますます頬をふくらませ、わめく。
「ひどぉーーーい、女の子に向かって珍妙だなんてひどぉーーーい。傷ついた。心葉くん、きみって、家で薔薇の花にナンシーとかベティとか名前をつけて大事に育ててそうな優しい顔してるくせに、先輩に対してデリカシーが足りないと思うわ」

 

野村美月『”文学少女”と死にたがりの道化』 

 

薔薇の名前』と『文学少女』に間テクスト性を見出してしまった。『薔薇の名前』のほうはまだ読んでないひとにうっかりネタバレしてはいけないと思って決定的な箇所は引用できないけど、遠子先輩ってボルヘスだったんだ…。

 

ぶじエーコを読み終えられたので、エーコファイトクラブという噂のローラン・ビネ『言語の七番目の機能』にとりかかろうと思います。