2020-11-20(夢/胡桃の殻)

 

  毎日夢を見る。色の付いた夢。五感を刺激し続ける、まるで現実のような、ひどい悪夢。いつの間にかその悪夢の中に紛れ込んでしまい、気が付くと逃れようとしてももう逃れられない。夢はどんどん私の生活を浸食し続け、今ではそれに支配されて暮らしている。現実世界の出来事も記憶も、殆ど消え果てている。

 その夢の中の私は絶えず死の危険に曝されていて、いつか覚めるからと平然としているわけにもいかなかった。死ねば現実の肉体が目覚められなくなり、現の体は朽ちるまでただ眠り読ける、という、設定になっている。

 その夢は何回も繰り返して見る。千年に二回または一秒間に五回、外の時間は判らないまま延々と続く。それ故に安易な逃げ道はない。但し夢を見るものはその繰り返しの中で、夢を、練習する事ができる。例えばRPGを繰り返してそのキャラクターが成長して行くように、繰り返しの中で夢との関わり合いを変容させ、同時に自分自身も変わって行く。 ——あまりに延々と練習をしたので、私はある程度までは夢をコントロール出来るようにさえなっているのである。いや、だが今のところ、それらが与える効果は微々たるものでしかなく、それが最悪の悪夢である事にも何の変わりもない。

 

笙野頼子『レストレス・ドリーム』

 

 

 

 

  眠れぬ夜。すでに連続三日目だ。寝つきはいい、でも一時間もすると目が覚めてしまう、頭を見当ちがいの穴に突っ込んでいたかのように。すっかり目覚めてしまい、全然眠らなかったか、紙一重で眠っていたかのような感じが残る。あらためて寝つこうとする仕事が待っていて、眠りから追い返されるような感じだ。そのあとは一晩中五時ごろまでそんなふうだから、眠ってはいても同時にいろんな強烈な夢がわたしを目覚めさせている。わたしの側でわたしはちゃんと眠っているのに、わたし自身はつぎつぎに夢と格闘しなければならない。五時ごろには眠りの最後の痕跡も使い果たされて、夢を見ているだけなのだが、これは目覚めているよりももっと消耗する。要するに一晩中を、健康人が本当に寝入る前のしばらくの間そうであるような状態で過ごすわけだ。目を覚ましたときには、あらゆる夢がわたしのまわりに集まっているが、それらの夢のことはあまり詮索しないようにしている。明け方には、枕のなかに溜め息をつく、今夜のための希望はすべて消えてしまったのだから。毎夜深い眠りから引き上げられ、まるで胡桃の殻に閉じ込められていたかのように目覚めたあの夜々のことを考える。

 

カフカ『夢・アフォリズム・詩』、吉田仙太郎訳

 

 

 

毎日8、9時間眠っているが夢はほとんどみない。悪夢を見るよりましかと思うが、真っ白な百合を見ているうちに百年たってしまう夢や親指がペニスになってる夢をみてみたい。

2020-11-14(飛ぶ孔雀/好物)

 


山尾悠子金井美恵子のサインが入った『飛ぶ孔雀』が欲しいというなんともミーハーな欲望に逆らうことなく、浅草橋のパラボリカ・ビスへ。基本的に半径が家〜バイト先のせまいせまい生活圏内にいるのでちょっとした遠出である。体調が悪かったこともあり前日からナーバスで、もしお金を前払いしていなかったらたどりついていなかったかも知れない、が無事にたどりついた。浅草橋は手芸屋とかなんか細々とした材料を売っている店が多いらしい。

 


展示じたいは中川多理の「薔薇色の脚」と、ほかいくつかの脚の人形と、山尾悠子の掌編があるのみでこぢんまりとしたものだったが、昔の『夜想』や『銀星倶楽部』のバックナンバー、あと今井キラ(この人が挿画を書いている『女生徒』の絵本を高校の図書館で見て以来ファンである)の画集や小物、劇団イヌカレーの葉書、鳩山郁子のサイン入り本などなど、素敵なものがたくさんあって幸福空間だった。好きなものは所有したい性質なのでたくさん買い求めた。

感染症が流行り始めた頃から、あ、人はいつ死ぬかわかんないな、ということがありありと感じられるようになり、欲求をあまり我慢しなくなったような気がする。無駄に自分に負荷をかけがちみたいなところがあるので、破産しなければいいくらいの心持ちでいいことにしている。

 


夜想』の少女特集(2013年)は充実の内容。千野帽子の「黒い文學少女のためのうぬぼれ鏡」というブックセレクトとか、境界性パーソナリティ障害のこともこの特集に盛り込むこととか、たのしい雑誌ってこういうのだなと思う。

 


好きなものを主体的に選んでいくことを意識するようになったのはごく最近のことだ。私はこれが好きと主張し続けていないとどんどん取り込まれてしまうような感覚がある。最初はぜんぶ母の好みで、今もまだ完全に抜けきってはいないけれど、じょじょに抜け出せていっていると思う。今はたぶん潔癖すぎるくらいでちょうど良い。

 

 

 

2020-11-05(会わない/日没)

大半の人とは、会わないまま死んでいく。連絡を取ることも噂を聞くこともなく、中には知らないうちにほんとうに死んでしまう人もいる。だとしたら、会うことがない人と、死んでしまった人と、どこが違うのか。[…]

会えるかもしれない、と、わたしは思い続けることができる。会わなかった年月の分、年を取った彼らと。たぶんそれが、生きてる人と死んだ人の違うところ。

 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』

 

 

 

わたしは、自分に会いたいと思う人などこの世にいないだろうと思いながら生きてきたし、今もそうだ。

 

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』

 

 

 

関西弁が使われている小説を読むと、会話文でいわゆる女言葉を避けるには方言という手しかないのだろうか、と思う。川上未映子柴崎友香津村記久子西加奈子も。村田沙耶香はたぶん語尾を伸ばすことで処理している。

 

 

 

ここ数日漫画ばかり読んでる。なんで漫画って学校で読んじゃだめなものみたいな感じだったんだろう。高校の図書館にはたくさん漫画があって、そこでパラダイスキスとか三月のライオンとかチェーザレとかNANAとか読んだ。君に届けとかもっといろいろ読んどけばよかった。でもやっぱり2000年より前に書かれたものに惹かれることが多い。誰かに生まれ変わりたいと思ったことはないけど、もっと前の時代に生きたかったとは思う。

 

 

はやくなった夕暮れの部屋で、誰にも会わないまま死ぬのだろう。

2020-11-01(世界のみかた/ことばで縫合しきることのない境界)

 

一種のドーピングのようなものなのだ。音楽を聴いていないと手も足も出ない時がある。物理的にも、そして数分をただ息をしてやり過ごすだけのことにさえも。けれど音楽を聴くと、それが鳴っている何分かだけは、息を吹き返すことができる。アザミはときどき、自分はその何分かをおびただしく重ねることによって延命しているだけだと思う時がある。

 

津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!』

 


本を読むことは他人の目で世界を見ることで、映画を観ることはまるごとちがう世界に行くことで、音楽を聴くことは世界とじかに繋がること。

 

 

 

ハミングは音の響きとして繰り返される。リトルネロ、夢というものが意識が回収しきれずにいる綻んだ苦しみをすっぽりと覆い尽くすものであるのと変わらずに、ことばで縫合しきることのない境界をさすり続ける。語られうることばとはすべて暴力的な音楽であって、針の先が肌理を突き破らなければ傷口を縫い合わせることができないように、そのように絶え間ない不快感を不快感で歌いなおすかのように、書き、語る。

 

八柳李花「音楽と憎しみ**」『Cliché』

 

 

 

「でもね、本当に好きな音楽があればずーっと聴いてたらいいと思うよ」

2020-10-25(薔薇の名前/ボルヘス/遠子)

「なぜですか?一巻の書物が述べていることを知るために、別の書物を何巻も読まなければいけないなんて?」
「よくあることだよ。書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。アルベルトゥスを読んでいるときに、後になってトマスの言うことが、どうして想像できないであろうか? あるいはトマスを読んでいるときに、アヴェロエスの言ったことを、どうして想像できないであろうか?」
「そうですね」私は感心してしまった。そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語り合っているみたいなことが、私にもわかった。

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』下巻、河島英昭訳

 

「〔…〕わたしは、この世のありとあらゆる物語や文学を食べてしまうほど深く激しく愛しているごくごく普通の可憐な高校生で、ただの文学少女です」
「一般的な女子高生は、いきなり本のページを引きちぎって、むしゃむしゃ食べたりしないと思いますけど。少なくともぼくの十六年の生涯で、そんな珍妙な女子高生は、遠子先輩以外見たことないし聞いたことないですよ」
遠子先輩がますます頬をふくらませ、わめく。
「ひどぉーーーい、女の子に向かって珍妙だなんてひどぉーーーい。傷ついた。心葉くん、きみって、家で薔薇の花にナンシーとかベティとか名前をつけて大事に育ててそうな優しい顔してるくせに、先輩に対してデリカシーが足りないと思うわ」

 

野村美月『”文学少女”と死にたがりの道化』 

 

薔薇の名前』と『文学少女』に間テクスト性を見出してしまった。『薔薇の名前』のほうはまだ読んでないひとにうっかりネタバレしてはいけないと思って決定的な箇所は引用できないけど、遠子先輩ってボルヘスだったんだ…。

 

ぶじエーコを読み終えられたので、エーコファイトクラブという噂のローラン・ビネ『言語の七番目の機能』にとりかかろうと思います。

2020-10-21(わたしには言葉がある/のらくら)

 


「共有しない」ボタンを押し続けていないとあっという間に他人の発語に乗っ取られてしまう。私は私の言葉をつむげないと最初から知っていたし、そもそも言葉は私と他者を繋ぐためにあるのだから、私の言葉を守りたいと考えることすら無駄なことなのかもしれない。非日本語を日本語に置き換えるとき、私の言葉を使っているという実感がある。

 

わたしには言葉がある、とおもわねば踏めない橋が秋にはあった/大森静佳

 


世界には、物語がたくさんあるのだからそれをできる限り摂取し続けていよう、と、忘れないようにしたい。

 

「おまえのとこの嫁さんがどうすればいいか教えてあげようか」とボヴァリー老夫人はいった。「しっかり働くこと、手仕事をやることさ、世間の女のように食べるためになんとかしなけりゃならんひとなら、あんなふさぎ病はおこりゃしないよ。つまらんことばかし考えるから、暇でのらくらしてるから、おこる病だものね」

「だってあれはいろんなことをしてますよ」とシャルルはこたえる。

「へえ、いろんなことだって!どんなことをだい?小説だとかつまらぬ本を読むのだろ。宗教のことをわるくいったり、ヴォルテールの言ったことなど引いて坊さまを謗ったりするそんな本をさ。でもね、いいかい、こういうことは末はおそろしいよ。宗教をもたない人間きっとさきにいいことはないんだから」そこで、エマに小説は読ませぬようにすることに話がきまった。

 

フローベールボヴァリー夫人』、生島遼一訳、新潮文庫

 


本を読まなければふさぎ病はおこらないのかもしれない。

2020-09-28(耳にはまぶたがない/呼びかけ)

無限の受動性(見えない強制的な受容)が人間の聴覚の基盤にある。言ってみれば「耳にはまぶたがない」。

聞くこと、それは離れていながら触られること。
リズムは振動と結びついている。だからこそ音楽は、本人の意図と関係なく、隣の身体を親密なものにする。

 

パスカルキニャール『音楽の憎しみ』、博多かおる訳、水声社、76頁

 

人物像【プロファイル】で見て、漠然と感じていた何かが、その言葉を音の連なりとして聴くことによって、はっきりと血肉を得たような気がした。ルツィアの声がそれを語ることで、データにはなかった理解が形を得たのだ。文字を読むことと、声を聞くことは違う。
耳にはまぶたがない、と誰かが書いていた。目を閉じれば、書かれた物語は消え去る。けれど、他者がその喉を用いて語る物語は、目を遮蔽するようには自我から締め出すことができない。

 

伊藤計劃虐殺器官』、ハヤカワ文庫、186頁

 

 

なぜ街頭の人は、「おい、そこのお前!」に対して、振り向くことで応答するのだろうか。後ろから呼びかける声に直面するために振り向くことの意味は何だろうか。法の声へのこの振り向きは、権威の顔によって注視されたい、またおそらく、権威の顔を注視したいというある種の欲望の表れなのである。権威の声とは、聴覚的光景を視覚化したもの——鏡像段階、あるいは恐らくより適切には「音声的鏡像」——であり、それなしでは主体の社会性が達成されえない誤認を可能にするものである。

 

ジュディス・バトラー『権力の心的な生』新版、佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社、144頁

 

 

座敷に坐って、何か考えていると、膝の下の床下で、猫が動いた様に思われた。
それから暫らくすると、変な、かすれた声で、けえ、けえ、と鳴いた様な気がした。
ふらふらと起ち上がり、庭に下りて、縁の下を覗いて見たら、矢っ張り猫で、子供が三匹いるらしい。私の姿を見て、きっとなり、身構えしている気配である。薄暗いところで、まん丸い眼を紫色に光らし、咽喉の奥かどこかで、ふわあと云うのが、小さな声の癖に何となく物物しかった。

 

内田百閒「梅雨韻」『小川洋子と読む内田百閒アンソロジー』、ちくま文庫、232頁