2019-12-02(武田百合子/夏物語/短歌)

 

 

だいたい十五冊ほど同時並行で読んでいて、何も読み終わらない状態になってしまっているがそれぞれ面白く、まあ一章ずつでも読めば必ず読み終わるのだから気の向くままに読む。やればちゃんと終わりを迎えるものが好きだ。本は読み通しても読み終えたことには本当はならないのかもしれないが、一応全てのページに目を通したということは言える。大学の課題の翻訳も、単語があまりにもわからないのでめげる時もあっても、基本的には好きな作業だ。春に部屋を移って北側だからかすごい冷えて、さらにもともとの末端冷え性も悪化しているような気がして、一日に四回くらい湯たんぽのお湯を入れ替えて抱えて毛布にくるまりながら、起きたまんまのパジャマ姿で過ごしている。そんな日が週に二〜四日くらいある。老人っぽい。こういうぬくぬくの生活もいつか終わりが来るのかな、週休三日あるような会社に就職できないかな、と甘っちょろいことを考えている。本当に働くことが想像できない。

明後日金井姉妹のトークショーに行くのと(サイン会もあるらしいのだけれど、なんだか緊張する)、たまたま授業で「風流夢譚」を扱っているので、深沢七郎武田百合子関連のもの、それに関する金井のエッセイなどをまとめて読んでいる。武田泰淳も読んでおきたかった(特に『目まいのする散歩』を)けど、間に合わないかもしれない。

さらにその後には川上未映子トークショーにも行くつもりなので、『夏物語』と先日出た文芸別冊のムックも読んでいる。『夏物語』はまだ第一部までしか読んでないけれど、冒頭は標準語の穏やかな語りだったのでやっぱり丸くなったのかな…と思ったのに、途中から怒涛の関西弁が始まって、これやの、これ、となったのだった。(乳と卵読み返してないけど、もしかしたら結構一緒の部分が多いのか?読み返さねば)。関西に住んでいたのは三年ほどだったけれど、小学校低学年という吸収の良い時期だったからか、確かに関西弁のリズムをわたしは知っていて、関西弁(というより大阪弁)の文体をけっこう体感的に読める。あの扇動的な淀みない喋り、

あたしはお母さんが、心配やけど、わからへん、し、ゆわれへん、し、お母さんはだいじ、でもお母さんみたいになりたくない、そうじゃない、と緑子は息を飲み、はやくお金とか、わたしだってあげたい、お母さんに、あげたい、ちゃんとできるように、そやかって、わたしはこわい、いろんなことがわからへん、目がいたい、目えがくるしい、なんで大きならなあかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかっったんとちがうんか、みんながみんな生まれてこなんだら、何もないねんから、何もないねんから

というような文章は、山戸結希が映画で若い女優に喋らせているような手法と割と近いなあと思った。読者への親切?を感じるようなところも結構あって、作者のスピーチを聞いているような気がときどきしないこともないけれど、今のわたしが「小説」を読むことに前よりも意識的になったということだけかもしれない。わたしは川上未映子大阪弁文体のみを好きだったのかもしれない。

 

あと、Kindle Unlimitedのキャンペーンやってて安く登録できたので、昨日からしている。新鋭短歌シリーズが結構読めるのでうれしい。初谷むい、岡野大嗣、今橋愛、井上法子などなど…。ちょいと本は読めないけどスマホは見れるような時間に短歌を読めるのはいい。金井美恵子の、あの例の短歌(というか和歌)の狭っ苦しい言説空間に対する批判も読んだけど、まあ現代短歌はもう天皇制に対する意識というか、そういうのから離れて作っているひとが多いのだろうし(それがいいのか悪いのかはともかく)、曲のワンフレーズみたいににお気に入りの歌を覚えておくとなんだか心強い。