はてなブログが記事の真ん中に広告をいれてきて最悪って言ってたら本日のブログみたいなのでピックアップされて読者が増えました。
今年は街のイルミネーションをみたり、クリスマスカードを貰ったりして、クリスマスのわくわく感をよく味わっている気がする。キリスト者ではないけどキリストやマリアやロバや羊や星や彼らのいる世界の色あいが好きでキリスト教関連のものを集めてしまう育子のことや、クリスマスツリーの下で眠った夕歌のことを思い出す。
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人と関わると自分の輪郭が浮き出てくる。さいきん日記をたくさん書いているのはそのせいもある。そしてわかっていたことだが、人と関われば関わるほど孤独を感じる。今月は大社交月間で躁鬱とは言わないまでもけっこう気持ちの上下がはげしく、高校の集まりはパスしてしまった。一対一でないと「べつにわたしがいる必要ないな」と予定をキャンセルしてしまいがちだ。それをキャンセルした上でなお年末まで予定入りすぎてちょっと疲れて億劫になってきてもいる。仕事がないのをいいことに平日に身体をやすめる。
メンヘラという言葉を用いて良いかわからないが、人の好意に自分の存在の意味ををあずけてしまうということが気持ちの上下をうむのだろう。その人からの好意の気配に過度に敏感になり、しかし往々にして人はそこまで好意にこだわりはなく、行動と好意が一致しているとも限らないので、私が気にするべきことではない。あまり気にしなくなってきていると思うけど、それは私の相手への興味にも関わる気がする。誰かにとっての特別でありその誰かを大切にしていれば孤独ではなくなるのかもしれない。でもいままでの経験上、べつに恋人がいたからといって定期的な話し相手がいるという点で多少寂しさは紛れるかもしれないが(でもその点であれば極論週一回話す人が七人いたらいいということだ)、孤独がなくなるわけではない。また次会う約束をしてわかれられるのはうれしい。
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ロリィタにカテゴライズされることが嫌ではないのか?と聞かれたとき、その場ではぜんぜん!と答えたのだが、その理由を考えてみた。たとえば女性にカテゴリー化されることは、そのとき言われる女性とは男性に対比されるところの(暗に劣っていると示された)女性であり、二元論的な枠組みでしか捉えられていない。
ロリィタにもゴシックやクラシックや和などいろいろあり(私はゴス&クラが好きで色は黒ばかり)、女性がそうでないのと同じように一枚岩的でない。まあロリータさん(笑)みたいな蔑視的目線の人とかもいるんだろうし、そういう人の目線をカテゴリー化と呼ぶなら批判されるべきというか、まああなたにはわからないでしょうねみたいな応対をするしかない。かといって私は集団性が苦手なのでロリィタのイベントなどには参加する気は全く起きないのだが。
と、ここまで書いて思ったが、私はロリィタよりもゴシックに重きを置いている。
明日は今日より幸せであるとか、人間精神は改良できるとか、人は平等であるとか、努力すれば必ず報われるといった言葉を信じられなくなったとき、すなわち近代的民主的価値観が力を失ったとき、ゴシックはその魅力を発揮する。〔…〕そして実のところ、現実社会という「誰かのための制度」を憎み、飽くまでも孤立したまま偏奇な個であろうとするゴシックは、そういうクズな世界での抵抗のひとつなのである。
だがこの本の最後で二階堂奥歯についてこう描写されることについては批判(というより非難)されるべきだろう。
Vivienne Tam, MORGANといった衣装を好み、ゴシック・ロリータをも愛した。それらの似合う容姿であったと思う。話せば非常に聡明だったが、単に知的に優れているだけでは満足しないことがその容姿への注意深い管理から見て取れた。(236頁)
それらの似合う容姿であったと思う??そういうジャッジのできる主体=男でよかったですねえ…さぞあなたもご立派な容姿であることでしょう。
ブチ切れたところで話を戻すが、年齢や性別や体型などの社会的コードを無視して好きな服を着るのはそう簡単なことでもないと思う。バトラーがジェンダーを衣服のように「自由に自分の意志で取り替えられるもの」として形容したことに批判があったが、衣服が自由意志で選びやすいことに異論はないにしてもそこにもまたなんらかの規範のしがらみがあるに違いない。ロリィタは無垢な少女性の強調だとして、女性から批判を受けることもあるのだろうが、むしろ少女性や女性性の過剰な、普通の格好(とは?)から逸脱した、ちょっと日常に馴染みやすいドラァグくらいに考えたい。ドラァグとアレゴリー(≠習慣的比喩)についてはわたしの卒論3-2をぜひお読みくださいませ。
『読むことのアレゴリー』文庫化したので買いたい。
↓親切に自己引用
しかし、ドラァグの形象の攪乱性にバトラーがこだわっているのは、それが身体表現でありながら意味的な規範性を問うものだからであろう。言語でありながら行為であり、行為でありながら言語であるということがパフォーマティヴの持つ意味であった。ドラァグのアレゴリー性は、身体と意味の連続的な語りを切断させる力をもつ。より正確にいえば、異性愛的でストレートにみえる物語はその根源的な場において断裂していることを明るみに出す。
アレゴリーは、身体の同一性によって支えられた〈私〉の首尾一貫した物語——分析の治療のある場面においてそれは強固に要求されるかもしれない*18——が、〈私〉の身体も含めた〈私〉以外のものによってさまざまに断片化されているということを示すだろう。バトラーは、「私が語る物語、ある種の必然性を持った物語は、その指示対象〔referent〕が十全に語りの形式を取るとは想定できない」と述べたあと、註でこう付け加えている。「語りはアレゴリーとして働き、最終的に連続的関係においては捉えられないものに対して、また、語りの形式を引き受けるときにのみ否定され、置換され、変形されうるような時間性、空間性を持つものに対して、連続的説明を与えようとする」(GA 68,75)。この文は一見、アレゴリーが連続的な一貫性を与えるというように読めるが、そうではない。アレゴリーは語りに連続的説明を「与えようと」しながら、常に失敗しなければならないのである。