夏休みもあと一週間でおしまい。夏らしいことは何もしてないしずっと家にいたけど、好きな時間に寝て起きてひたすら本を読んだり転がったりしてる時間も贅沢。本当はこれを贅沢と思わないくらいにずっとのんびりしていられたらいいのに。今までもそれなりに本を読んできたつもりだったけど本当に全然読んでこなかったのだな、ということを春学期に痛切に感じて焦っていたので、夏休みは一日一冊以上読むようにしてたけどそれでも全然まだ読まなくてはいけない本がある。べつにこの世に絶対読まなくちゃいけない本とかはないけど。
さいきんは青葉市子とグレン・グールドのバッハばかり聴いてる。どちらも落ち着くし秋の空気に合う気がする。労働への意欲がうすいのでぎりぎりまで音楽を聴いている。なんだか前よりも音に敏感になった気がする。リビングのテレビの音が気に障るし、朝も大抵は向かいの犬が吠える音で目がさめる。ノイズキャンセルの機能があるイヤホンを買ったけど、たしかにすこしうすい膜が張ったような感じになる。グールドのピアノを聴いていると、わたしにもピアノが弾けたらよかったのに、と思う。家にグランドピアノがあるのにもう母親は弾かないので調律もくるっているし、化石化している。バイオリンでバッハを弾いてみてもやっぱり違う。右手と左手が独立した二つ以上の旋律を一人で弾けるのはピアノにしかできないこと。
昨日読んだ谷崎由依の『囚われの島』には調律師が出てきた。調律をしている場面がなかったので、その必然性はあったのかしらとも思うけど。調律師の話といって思い浮かべる人が多いのは『羊と鋼の森』だろうか。今日のバイトで暇つぶしに過去問をみていたら出題している学校があった。国語の問題に何を出すかで結構学校の色みたいなものはわかってしまう。『氷の海のガレオン』を出す国語教師がいる学校は良いに違いない。
家から徒歩で行ける本屋さんがあって、わたしが中学生の頃は、海外文学をほとんど全く置いていなかったのに(『嵐が丘』を買おうとしたらなかったのだ)、一角まるまる海外文学の棚になっていて、今は『三体』と韓国文学が面陳されている。昨日の夜散歩に行ったら、『ナイトランド・クォータリー』が全冊揃っていて、『トーキングヘッズ叢書』もあって、他にも国書刊行会の本、とりわけ『教皇庁の使者』や『ワルプルギスの夜』といった幻想文学が充実していて、これはどう考えても幻想文学好きの書店員さんがいる、と確信した。偏りが凄いもの。昨夜はあまりお金を持ち合わせていなかったので何も買わずに帰ったけれど、やっぱりここでなにか買って感謝の意を示さなければ、と思って今日の午前中にジェフリー・フォードの『白い果実』を買ってきた。レジの書店員に「幻想文学に力入れてるんですか?」と聞いてみたら、「はい、担当者が好きみたいで…」とかえってきたのでやっぱり。いつか会って話をしてみたい。そこまでわたしは詳しくもないし読んでもないのだけれど。
誰かと喋れるくらいに読んでおきたい、というのが今の読書のモチベーションである気がする。結局、書く書くと言っていた文フリに出す用の文章は書かなかったけど、まあ良い。書く時間があったら読みたいという気持ちがまだ強いから。読むより書きたいと思う日はくるのだろうか?