2019-09-19(詩/タヒ/声)

 

 

 

詩というのは、書こうと思って書くというよりは書かざるをえなくて、書かないとやっていかれないから書く、というものなんだと思っていた。でも最果タヒは「仕事だから書いています」と言うことを憚らない。仕事というのは生きるためのお金を稼ぐためにするものだから、結局は生きるために書くということにもなるかもしれないけれど、やっぱり直接的に自分の実存のために書くことと、仕事という経済的なものを挟んで書くことはだいぶ異なっていると思う。それは、「詩人」としてのポーズに対する挑発なのかもしれないし、それでも「詩人」という特権をもった人間であるということの誇りを捻くれた形で差し出したものなのかもしれない。仕事だから書いています、と言えるくらいに詩が売れることはそうないだろうから。仕事として書けるということは読まれることが前提になっている。

彼女はたしかブログに載せていた文を「それは詩だね」と言われたことで、詩を書くようになったのだと言っていた。最初から読者ありきの詩作ができるのはインターネットの特長でもあるだろうけれど、それは詩にとって喜ばしいことだっただろうか。例えばルミネの広告なんかをやっていたけれど、あれは詩なんだろうか? いちど有識者に聞いたことがあるが「ギリギリ詩だと思う」と言っていた。詩ってなに?とずっと考えている。

金井美恵子がエッセイに、音楽を映像ありきで受容している(彼女は幼い頃から映画により親しんでいたから)みたいなことを書いていたが、わたしはずっと歌ありきで詩を受容してきたことに気がついた。詩が読めないなとは思ってきたけれど、それでもいくつか暗唱できる詩があって、それは全て歌詞として詩を受け取っていたからなのだった。たぶん声に近い詩ならば、わたしは読むことができる。

 

生きるのが下手です不器用ですというエッセイは世に溢れていて、それの先駆者の一人は穂村弘だと思うけど、穂村弘が自分の家の窓を開けるということを考えつかなかったり会社の内線でおろおろしていたりしても、結局は課長というポジションにつき、歌人として華々しい活動をしているように、最果タヒもうまく喋れないとか口紅がよくわからないとか言いながら、賢く宣伝活動をし、売れないとされている詩集をばんばん売っている。たぶん彼女は生きるのがとても上手だと思う。なんだか最果タヒに対してずいぶんと意地悪な感じになってしまったけれど、わたしは彼女のブログ・エッセイがとても好きだ。『きみの言い訳は最高の芸術』はサイン入りの文庫を買い直したし。
でも彼女はどこから書いているのだろうと時々思う。例えば「十代に共感する奴はみんな嘘つき」といった文章は、一見、「大人にはわからないと思っている十代」を代表するかのような位置から書いているようにみえるが、同時に十代を「どうでもいい」と軽蔑する。共感を拒んでおきながら「〜だね」とか「〜よね」という語尾をよく用いる。たぶんそれは彼女が率直にものを書いているように見せながら、実は随分とコントロールして文章を書いているということなのだと思う。つくづく頭のいい人だなと思う。今のわたしはもう彼女の文章をアクチュアルに感じるということがなくなった気もするけれど、この文章を書いているのは本当にわたしなのかということを最果タヒを通して考えてしまう。