2019-06-01(クレイジー沙耶香?/おままごと)

 

村田沙耶香の『ハコブネ』を読んだ。

朝井リョウ加藤千恵オールナイトニッポンがすごく好きで、youtubeにあるアーカイブを未だに聞いているのだけれど、村田沙耶香出演回は本当に面白くてクレイジー沙耶香と言われるのも頷ける。

彼女はセックスってなに?結婚ってなに?みんなってなに?というような問いを問い続けている。その問い自体はそこまで目新しいものでもないのだが、彼女の特異なところはそれが素朴すぎるところにあると思う。セクシュアリティジェンダーの問題はどうしても、知識が先行してしまって最初に持っていたはずの違和感を忘れて理論っぽくなってしまう。彼女の小説を読むとその違和感を思い出す。またその違和感が怒りへと直結しない。「私たちはもっと怒っていい」みたいなスローガン(?)が掲げられることもあって、それは普段抑圧的な思考をしがちな人にとっては有効なのかもしれないけれど、正直わたしは怒りたいわけではない。疑問を呈することと怒りという感情を喚起することはイコールではないと思う。怒らないことをナイーブだとは言ってはいけない。素朴な疑問を問いかけていることをただクレイジーの一言で片付けるのもいけない。

 

 子供のころ、知佳子はおままごとがうまくできなかった。皆が空想の世界に飲み込まれているみたいで、見えないご飯を信じきった目で食べているのが怖くもあったが、皆とても楽しそうで、自分もその世界に入り込みたいのになかなか入れず、いつもうらやましかった。
「やーめた」
という誰かの声で催眠術から覚めたように、さっきまで赤ちゃんやパパや犬だった皆が元に戻るとほっとした。一人だけおままごとの外にいるのが、少しさみしかったからだ。
 今も同じだ。一人だけ、おままごとから目を覚ましているような感覚が続いている。何十億人もでやり続けているこのおままごとが昔と違うのは、皆、この夢の世界に閉じ込められていて、終わることがないことだ。
 知佳子だけが一人、おままごとの幻想を自分だけでは維持できずに、魔法がとけてしまう。転がる小石、小さな星の欠片に戻って、おままごとの外で眠るのだった。

 

村田沙耶香『ハコブネ』(集英社文庫)p67