2019-03-15

 

 

人は自分の信じたいものを信じる。ハラスメントの被害者側と加害者側がいたときに、加害者の発言というのはあまり認められない(だから弁護士という職があるのだろう)。

 

ハラスメントの被害者が告発したときに、周りの人が「怖かっただろうねぇ、頑張ったね、偉いね、加害者はクソだね」と駆け寄る様子は、小学校の時、遊んでいて転んで泣いている子にわらわらと群がって大丈夫?と声をかけるあの子たちの様子にそっくり。偽善だとおもうわたしが捻くれすぎているというのもあるが、とにかくこういうのが苦手なのだ。被害者の痛みを代弁して周りから気に入られようとするその魂胆が。

 

悪いことをした(らしい)人を裁く権利は裁判官でない私たちにはない。傷つけていいわけでもない、それは新たな暴力だ。

 

物的証拠が残らない暴力を受けた人は「被害を受けた」とただ言うしかない。そしてもちろん加害者は「やってない」と言う。だからそれを聞いた人はどちらの言葉を信じるか、という問題になる。人は信じたいものを信じるし信じることは自由である。