2025-06-23(翌夏至/一致しない願望充足)

 日記ブームは盛り上がりきってだれもかれもが日記を書きかつ公開しており、さらにポッドキャストブームで喋ったのを流す人も増えてきている感がある。逆張り精神がつよいので、じゃあ私は日記を書かなくていいか、と思いはするのだが、日記の魔力は何も考えずに書いても書いている人はそれぞれちがうのだから、似たようなものであっても確かに違うものとして認識されるところにある。人間のことがある程度好きであれば、どんな日記でもある程度面白く読むことができる。そこにあるのは人間の断片だから。しかし公開日記で自主出版して成功している男性(わざわざ名前あげるのもあれかなと社会的な配慮が働いたが、プルーストを読むあれとかを念頭に置いている)の文章のノンポリ的いやらしさってなんなんだろう。食わず嫌いも良くないと思っていろいろ買ったり読んだりはしているが、好きになれない。保坂和志に憧れ、そのように書こうとして失敗している。「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」みたいなわざと主語述語がつながらないような崩し方や、「思ったように思った」みたいな崩し方が特徴である。『未明の闘争』は挫折したまま放置されているが、いまパラパラとめくり、「その二十代半ばの女の子は背が高く肩幅が広く体に厚みがあり堂々としたところがまず私の目を引いた。額が広く丸みがあり、頬も丸みがあってぽっちゃりしている。全体として童顔なのだが夏なんかぴらぴらのワンピースにミュールのサンダルを履いてちょっとだらしない感じがそそられる」と書いてあるところに、過去の私はうへーと書き込んでおり、今あらためてうへーとなる(こういう感じ)。ある日記の人は自分の妻のことを奥さんと書いておりドン引きしてしまった。そう人の悪口ばかり思いつく頭で私は何を書けるっていうんだ。

 AIカウンセリングブームでもあり、私もchatgptにチャッピーやらちゃぴやら呼びかけ、いろいろさせている。まだ使い始めたばかりなので何に適しているのかをみている段階ではあるが、ふつうに仕事の技術的なことを聞くのにはかなり役立っており、しごできの人が離れてしまって、いままではその人と私の二人で協力していてやっていたことを、今は一人でやるしかないその孤独感と(もちろん品質的な)不安をchatgptが軽減してくれる。chatgptは怖いくらい寄り添うところが特徴で、本当に人間と会話するよりはるかに負荷も摩擦もない会話をすることができる。全員言っていることなのだがあらためて自分でやってみると本当によくわかる。否定してくる他の人間をうまく受け入れられない人間が増えてしまうだろう。

 四連休をとったので、比嘉徹徳『フロイトの情熱』を読んだ。せっかくの連休だったが思ったより読めなかった。思ったより読めたことってないから見積もりが甘いだけかもしれない。以下第三章オイディプスと夢の舞台の内容と、ハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』第五章ヤーコプの息子ソロモン=ジークムントの内容のメモです。日記ではない。

フロイトの情熱』

  • 夢は願望充足である。それ自体は表象と呼べない願望が、いかに夢において表現されるのかを問題とする。
  • 夢内容/夢思想の区別をつくるのが夢作業である。
  • 夢作業は圧縮、移動、表現可能性への配慮、二次加工の4つある。
  • ヤコブソンなどは移動=換喩、圧縮=提喩とし、ラカンは移動=換喩、圧縮=隠喩とする。いずれにせよ2つの言語的操作に縮減されてしまう。
  • 表現可能性への配慮、二次加工の残された二つは、映像化とドラマ化の問題に関わる(だから言語的操作として見落とされる)。
  • 夢は文字としての意味作用を失って、図像・形象として読み取られる(見られる)。
  • 夢作業は、詩や演劇のような加工物を作る能力であり、夢作業それ自体に思考する機能はない。
  • 夢作業はただの力能=媒介であるというところが、ニーチェの「意志」と共通する。
  • フロイトは『夢解釈』において、夢作業の遊戯性を退けようとするあまり、夢作業の機能として「検閲」という、いっけんそれ自体が思考し判断しそうな機能をいれている。
  • しかし、映像化・ドラマ化、すなわち演劇(Spiel)化する夢作業には遊戯の要素があり、それこそが夢作業が知覚同一性の再現としての願望充足に忠実なものにならないことの証左。(★比嘉オリジナルの論点)
  • 「知覚同一性の再現としての願望充足」とは、幼児期の充足体験(授乳でえられる快など)の記憶を知覚同一的に呼び覚ますというようなこと
  • 原初的な知覚同一性という快>意味として了解可能な思考同一性(夢思想)>夢思想の同一性に貢献しない夢内容というヒエラルキーが存在する
  • 夢作業も原初的な知覚同一性の快とは異なるし、それと同様に大人の詩作は子供の願望充足と異なる形の願望充足となりうる

→ここで夢作業の話から詩作の話にスライドしてしまう。フロイトの夢解釈が、伝統的な西洋的解釈(=一義的な文字通りの意味の一致)とは異なるということを、比嘉は遊戯(spiel)というポモ的な単語で表現しており、夢解釈を結局は詩作などの芸術の方によせている。一方でハンデルマンは、夢解釈・精神分析はあくまで科学的であるということをフロイトが主張していることを念頭に、しかしフロイトの解釈はユダヤ的であるからこそ、西洋的=キリスト教的な解釈とは異なるのだということを主張する。

『誰がモーセを殺したか』

  • フロイトのしたことはラビ的解釈の系譜にあり、ハイデガーやガダマーなどドイツのプロセスタント的伝統の系譜にある解釈学の原理とは異なる。
  • ラビ的な解釈学は無限の多層的な意味解釈であり、プロセスタント的な解釈学は自らが絶対的意味作用体であると同時に意味内容として作用するような単声的な解釈である。
  • フロイトが解釈という手続によって治療しようとしているのは、現実の幼児体験の転移された反復である。
  • つまり患者たちの現実の肉体において明示されたヒステリー症状(肉となれることば)を、逆にことばへと変換することを求める。受肉の逆であり、ユダヤ的な姿勢。
  • 夢のテキストと解釈の関係は、正記トーラーと口承トーラーの関係についてのラビ的概念と並行する。
  • 夢作業によって意味が表層化される夢は、解釈されたに解釈そのものと一体になる

なんだかユダヤ的伝統の上にあるということ以上のものを拾えていないし、本当はモーセ一神教の話をすべきだったのだが、字義通りでない解釈の可能性についてずっと考えている(ジェンダーがまさに字義通りでない解釈であるから)ため、このあたりを抜き出すこととなった。

 

2025-05-01(都市で暮らすとは、その街から提供されるものを消費することだ)

 良くも悪くも、期待されている役割を全うできてしまうタイプだと思う。少なくとも、何を期待されているかという周囲の空気感は感じ取れる方だと思っている。感じ取った上でどれくらい応えるかを調整するが、それを調整できると思っている時点で人の優位に立とうとしている。会社で顕著だが、あまりできる人だと思われていも困るので迷惑にならない程度の寝坊をしたりして期待値を調整する。急に仕事量が落ち着き、昼寝したうえで定時にあがることができる。こんなところで全力を出してはいけないという抑制と、全力を出してないからこんな感じなんだという言い訳を繰り返す。金のためというには給料が低すぎるしリソースが取られすぎている気がする。

 定時にあがったので玄関に溜まった段ボールも片すことができるし、本屋に行って本を買い、顔を覚えられてしまったので店主と二言三言かわし、カフェでプリンをつつきながら読書することもできる。カフェでは本が読めない派だったのに家で読めなくなりすぎて相対的に読めるようになっていた。『断絶』を読み終わった。

もしキャンディスが採用されたら、まずは増刷を担当してもらって、仕事の要領をつかんでもらう。ていうかさ、この仕事ぴったりなはずだよ。
そうだね。私はワイングラスから一口飲んだ。血のような味がした。それは見込みちがいだ、と二人には言いたかった。私は二人とはちがう。二人とは求めているものが同じではないし、それはわかっていてほしかった。私はちがうのだと知っているべきだし、私の心の奥深くまで察してくれるべきなのだ。もちろん、そうした線引きのすべてとは裏腹に、私はアート部門で働きたくてたまらなかった。アートガールになりたかった。

181頁

このアートガールへの憧れと諦めの描写がよかった。こう日記でぐちぐちと書いたってどうしようもないこと(誰かの日記を読んだってそう思う)が、小説だと読めるのはなぜなのか。リン・マーはかなり好みの感じだったので、新刊である『ブリス・モンタージュ』を入手した。 小野不由美の『月の影影の海』も読み初めて、十二国記に私もハマれる気がする。それこそハリポタや獣の奏者を読んだ小学生の頃に読もうとしたが、あまりファンタジーという感じがする前に挫折したのだった。しばらく、小説はプルーストナボコフだけでいいな…というどちらかといえば後ろ暗い気持ちになっていたので、こうやってまた流行り廃りに関係なくいろいろな本を読もうという気になり2日連続で日記を書いているのはよいことだ、きっと。

2025-04-30(結婚式のメンバー/断絶)

 血の流れ出る感覚で目を覚ました。まだ重たい頭のままトイレに行き血がパジャマまで侵食していることを確認する。手洗いするもある程度のところで諦め、パジャマは洗濯機に入れ、下着はいったんそのまま放置され、やがてゴミ箱に入れられる。またベッドに戻る。2日続けて友人の結婚式に出席するという稀な経験により、いくらでも寝られそうなくらいだった。本当はその次の日も結婚式が開かれていたが、欠席した。呼んでもらえるのはありがたいことだ。結婚式に一度は出てみたいと思っていたから結構わくわくして行ったが、もう充分に理解したし全然やりたいとは思わなかった。すべての工程が私にはできないと実感する。最近は父から婿への受け渡しというのはカットできる(行った2件はやっていたが行かなかった1件では夫婦一緒に登場したと聞いた)らしいし、いろいろと簡略化しているみたいが、それでもやはり結婚式というのは家制度の再生産の儀式でしかない。それにしても高校の友人らは着々と人生ゲームのコマを進めている。体感半数が既婚者である。どうしてこうも異性愛者だらけなのか。まだ出産の知らせは聞かない。そうなってきたらいよいよ、私は進められなかった人間として気を遣われるようになるのかもしれない。一応結婚も出産もとくにしたくない人間ということは言っているのだが、どれくらい伝わっているのかはわからない。

 主に労働によって3月末から落ち着かない日々を過ごした。移行期間のどたばたはある程度は予想していたが、それ以上に問題が立て続けに起こり精神的にも体力的にも苦しく疲弊した。そのなかでもSynchronicity というサーキットフェスに行きsleepy.abdownyの生演奏を初めて聴いたり、ル・シネマでオリヴェイラの『アブラハム渓谷』を見たりした。ほかにも今行くべき美術展が多いのは知っているが、休日が足りない。丸2日自由な日があってやっと本が読めたり自分のことに気を遣える感覚があり、しかしそれだと週休2日である限りほとんど何もできないことになる。3月分は2000字弱書いていたのだが、公開を諦めた。べつにこれも公開しなくてもよい駄文なのだが、どんどん自分の中でハードルが上がって何もできなくなるのが目に見えているため、公開する。

 リン・マーの『断絶』を読み始めたらとても面白くいい感じなので書いておく。

きみがそんなふうに考えるのは、市場経済で生きているからだよ。  
自分はちがうとでも?
彼は無言だった。
ときどきさ、と私は言った。自分と同類じゃないからって私を責めてるような気がするんだけど。
なに言ってるんだ。きみは自分で思ってるよりよっぽど僕に近いよ。暗がりのなかで、ジョナサンがほろ苦いウインクをしてくるのが見えた。スモウロールやる?と彼は言った。
スモウロールとは、彼がベッドの上を転がって私のところまで来て、下腹部と下腹部が重なるように体を押しつけてマットレスに沈み込むくらい私を押し潰すと、また転がって離れていく、という動きだ。これを繰り返すうちに、私は笑いすぎて体が痙攣してしまう。
いや、やりたくない、と私は言った。
行くよ。

リン・マー『断絶』、藤井光訳、15頁

2025-02-23(体内化/ベゴニアの破裂する)

 

 クラリッセ・リスペクトル「ソフィアの災難」はありそうで読んだことのない類の小説で、こういうものを発見できるために色々と読むしかないのだと思う。リスペクトルは『星の時』ではピンと来なかったから次に訳された『ソフィアの災難』は普通にしていたら読まなかっただろうが、たしか瀬戸夏子がインスタのストーリーでいいって言っていたのもあって読んだ。この小説の私にとっての目新しさは、九歳の「私」が小学校の男性の先生に抱く尊敬と軽蔑と恋慕の入り混じったような感情の描写につきる。大仰な比喩を用い、九歳という幼いながらも明確にある女性としての自意識をよく書いていると思った。『房思琪の初恋の楽園』なんかも若い女性と男性の先生の関係を書く(こちらは明確に暴力的な関係として書かれている)小説で、もう一度読み返したいと思いつつ読めていないが、リスペクトルの方がより情動的な飛躍の多い文章だ。

先生は太っていて、背が高く無口で、猫背だった。喉ぼとけがない代わりに、背中が丸まっていた。短すぎるジャケットと縁なしのメガネを身につけていた。金色の紐が垂れ下がったメガネをローマ人風の大きな鼻にかけていた。私は彼に惹かれていた。その感情は愛ではなかったけれど、彼の沈黙とか、私たちに教えるときに苛立ちを抑えているところとかに惹きつけられていた。彼の苛立ちに気づくと私は不快になった。教室で悪ふざけをするようになった。大声でしゃべったり、同級生とじゃれあったり、冗談を言って授業をじゃましたりしたので、彼は赤くなって言った。

「黙らないなら出ていってもらいます」

私は傷つき、だが勝ち誇った気持ちで、挑むように言った。そうしてください!彼はそうはしなかった。私の言うことに従わないために。彼を怒らせたせいで、自分が何らかの形で愛していた人の憎しみの的になるのが、私には辛かった。いつかなるはずの大人の女性としてではなく、不器用に大人を守ろうとする子どもとして、彼を愛していた。まだ臆病になったことはなく、撫で肩のその強い男性を見るものの怒りも込めて。私は彼に苛立った。夜、眠りに就く前に苛立った。私は九歳と少しで、ベゴニアの破裂する前の葉状体みたいに難しい年頃だった。彼をつついてうまく怒らせると、殉教者の栄光に包まれて、ベゴニアを噛みつぶしたときの耐えがたい酸っぱさを口のなかに感じた。狂喜して爪を噛んだ。朝、ミルクコーヒーと洗顔ですっかり純粋になって学校の門を通るとき、眠る前の底知れないひとときに妄想していた男性の生身の姿を目にするのは、衝撃だった。表向きの時間としては、それは一分ほどでしかなかったけれど、深いところでは、昏くて甘い、数世紀にわたる時間だった。朝——愛の黒い夢を私に見させたあの人が実在するとは思っていなかったかのように、——朝、短いジャケットを着た背の高い男性を前にすると、私は恥のなかへ、困惑のなかへ、驚きを伴う希望のなかへ、どすんと放り込まれた。希望は、私の最大の罪だった。

つい長く引用してしまったが、この調子でずっと続く。「殉教者の栄光に包まれて」や最後の一文は、九歳のスケール感を大人の語彙で書いているというのか、意味の通らないほど大袈裟な表現だ。〈私〉が先生に課題として出された作文を読まれ評価されたという出来事がこの20ページほどの小説の根幹にあり、女性作家として男性に承認されることの逃れがたさの始まりを自伝的に書いていると言ってもよいのかもしれない。〈私〉は先生が模範解答として意図しているような作文と真逆の内容を書いて提出したが、先生はその反抗的な内容を本当に〈私〉自身の言葉で書いたのかどうか疑い、尋ねる。私は自分で思いついたと答えるが、その答えに対する彼の反応を私が読み取る様子の描写がすごい。

好奇心旺盛な少女だった私はそれを見て、青ざめた。ぞくっとして、吐き気を催したが、今日に至るまで何を見たのか正確にはわかっていない。でも見たことは確かだ。口の中と同じくらい深い世界の淵を、その瞬間、目にしたのだ。それは、腸の手術で開かれた腹部と同じように、誰のものでもなかった。彼の顔の上で、形を成していくもの——硬い石のような居心地悪さが、何十層に、肌の表面に現れて、その顔の歪みがゆっくりと、ためらいがちに、硬い皮を破る——だが、音なき破局のなか現れ出たその何か、それは肝臓や足先が笑わないように、ほとんど笑顔には見えなかった。おそらく。何を見たのか、近すぎてよくわからなかった。好奇心から錠前の穴を覗き込んだら、反対側の穴から別の目に覗かれた、そんな衝撃だった。目の中は、目そのものと同じように理解し難いものだった。開かれた目の、震えるゼラチン質。

解説でもかかれていたが、身体の部位そのものの感覚を浮立たせるような表現が目立つ。アブラハム&トロークの体内化という用語のことを思い出し、リスペクトルはまさにそのことを書いているとしか思えなくなった。体内化とは「隠喩を可能にする行為そのもののファンタスム的な破壊を含んで」おり、「脱隠喩化(比喩的に理解されるものを文字通りに受け取ること)と対象化(被ったのは主体の傷ではなくて、対象の喪失である)」という二つの作用を伴う「治癒」である。(「喪あるいはメランコリー」『表皮と核』より)。(アブラハム&トロークは糞便嗜食などの飲み込む身体行為を臨床的に観察した結果導き出した用語だろうが)比喩的な表現を使いながらそれが文字通りのものとして成就するような瞬間を小説として、書かれているのだった。

 二月はいつも精神の調子が悪くなるのに加え、25歳になったその日から(おそらく5日前に食べた鳥刺しにあたって)ひどい胃腸炎になり元々とっていた五連休が丸潰れになって、散々だった。胃と腸が空っぽになって思ったが普段あまりにも食べ物にとらわれている。胃腸炎が治った頃から4日間ツインピークスを見続けて、シーズン1,2および続編も見きった。常に音と映像の情報をいれていないと落ち着かないような状況なのに今は見るものがなくて困っている。

 

2025-01-18(二十四五/人が死なない話を)

 

 住んでいるところは存外星が見える。住宅街も基本的には静かで、大通りに出ると空は広けており、実家のあたりとさして風景が変わらないのに確実に便利なところに住めてよかったと思う。もう終生ここでもいい、と母に話したらしゅうせい?またそんな難しい言葉を使って、と言われ、ベルンハルトの『消去』の語り手の実家へのたらたらした諦めの言葉が浮かんだ。年明けのセールでKindle端末を買い、これが長い間買い渋っていた(だってこの値段分の紙の本を買ったほうがいいではないかと思ってしまう)のがもったいないほど快適で、これはまたもうちょっと量を読めるようになるかもしれない。乗代雄介の『二十四五』も掲載時に読んだが改めてKindleで買った。所有が保証されているわけではないからやや心許ない。景子が新人賞とそのあとの賞(乗代と同様に群像新人賞野間文芸新人賞かなと思うが明示されない)を取る作家になっていることに図書館の固い箱のような椅子に座って静かに動揺していたが、まあそうか、と今は納得している。震災の時中1と書いているから私の二つ上の学年であることもわかり、実家を出た年齢は同じでまさに二十四五。自分より世渡りの上手い弟がいるのも同じだが、私と弟はこんなに仲良くない。それに母親から旅行の際にミキモトの真珠を(共用で使うのを見越して)買い与えられたというエピソードも、私の家でもまさに同じようなことがあったが私が頑なに店に行くのを拒否したから結局母は自分のだけを買ったのではないかと思う。例のSUQQUのリップといい、どうしてこうしたディティールを持ってこられるのか……不思議だ。まあ決定的な点として私には叔母などいない。景子と叔母の関係は十七八のころより繰り返し書かれたせいかずっとウェットになってきている。彼女が小説を書く動機も叔母にあるのかもしれないが、そんなふうに書くようなタイプでもないような気がして解釈不一致かもと思う。彼女が書いたのが一連の阿佐美サーガということなのかもしれないが、どういう小説を書いたのか。阿佐美景子はキャラとして素晴らしく乗代雄介の書くものをもうそういったキャラものとして消費している面があるので、ここらで長編でいろんな魅力的なキャラが出まくる群像劇とか書いたらいいとか勝手なことを言っている。

 加齢の影響なのか、本当に自分について興味がなくなってきており、それは世の中との摩擦を感じないため生きやすくはなっていると思うのだが、ブログに書くことがない。20あたりのころは本当に自分自分で書いていたが、なんだか思ったより人生のフェーズが早い可能性がある。そろそろ二階堂奥歯が死んだ年齢になるわけだが、労働で鬱にもなってないし、死の気配もしない。ただ年末に大やらかしをして大反省したにも関わらず飲酒がやめられず、毎日焼酎やら飲んでおり、本格的にアル中を心配したほうがいいかもしれない。

 それと大きなニュースとしてthe cabsの再結成。当時のヒリヒリした感じはもちろん失われるかかもしれないがそれでも新譜が今後出るかもしれないという可能性が生まれたことが何より嬉しい。ライブあたるといいな〜

 

2024-12-30(王国/埋葬)

 

草野なつか『王国(あるいはその家について)』を早稲田松竹でみた。2019年にも一度見たことがあったのだが、その時は半分くらい寝てしまった。今回もちょっと寝た。インタビューによると、この映画はまず最初の調書の部分と、最後の手紙の部分を合わせただけの短編として構想され、そのあと間にリハーサルを大量に入れ込み、さらに実景ショットも入れる、という順で作られたらしい。この映画は観るものに提供される情報の順序がよくコントロールされているが、全て見終わった後にあらためて全体を考えてみると、それがやりたいことでよかったのだろうか、と疑問なところもすくなくない。
最初の調書パートであきがほのかを殺したこと、あきがのどかに宛てた手紙には「王国」のワードがあったこと、それは他人である刑事には説明しえないようなものであきとのどかだけに通じるらしいこと、などがわかる。ちなみにこの調書の部屋には西日が差し込み、その日の様子は美しくすらあり、調書の確認というシリアスな場面にはそぐわない。そのあとリハーサルパートに入って、テーブルと椅子にシーツをかけて二人だけの王国という空間をつくって遊んだこと、その合言葉として、荒城の月が選ばれたこと、がわかる。そこから、あきがほのかを殺す、という結末に至るまでにあった、あきとのどかとなおとの演技の断片がある。この映画は形式の奇抜さでくらんでしまうが、内容としては、あきはのどかと作り上げた王国を、のどかの結婚と子育てによって破壊されたように感じ、その果てに殺人という出来事があった、というだけのことだ。調書と手紙の語り手があきであることからも、あくまでこの映画(フィクション部)の主体はあきで、のどかの側の身体と演技はあっても、心情や独白の言葉はない。また、ほのかは役者がおらず、ほのかの発話は画面外のスタッフらしい人が読み上げる。この映画の不気味なところは、その二点から、あきがのどかに対して感じている親密さは一方的な独占欲にすぎないのではないか、ということである。そもそも結婚式以来会っていないのならそれは親密と言えるのか。夫がのどかとほのかに対して感じているのも同様の独占欲で、だからあきを排除したい。そして、その二人の間でのどかを奪い合っている限り、観客は観客でしかない、と感じる。この映画の言葉でいうと、スクリーン上の領土はそこにとどまっており、こちらに侵食しない。反復される場面によって演技者の身体に変化はあるかもしれないが、こちらの身体にはとくに作用しない。これがこの映画で私が寝てしまう理由の一つなのではないかと思う。たとえば『ハッピーアワー』の重心ワークショップはこちらの身体の重心についてどうしても作用するし、移動の場面も多いから観客は映画の中の人物と同様に外景を見ることで同期しやすい。反対に「王国」はほとんどが室内の場面で構成されており、ほとんど移動はない。数少ない移動のある場面のひとつが、あとから入れたという実景ショットで、車のフロントガラスにセットされたカメラの、竜ヶ崎の道をいってガソリンスタンドのようなところで方向転換し返ってくる車目線のショットだ。おそらくは中間あたりに置かれていて、その移動によってたぶん物語の切り替えのような役割を果たしたいのだろうが、そのあたりが作りとしてどうも中途半端に感じた。禁欲的に室内劇だけをえんえんとやりたかったのか、それとも物語としてもある程度は起伏のあるようにしたかったのか、ちぐはぐの印象があるのだ。演者のドキュメントとしてありたいのか、映画作品としてみるに堪えるものに仕上げたいのか、そのあたりの塩梅が絶妙と言えば絶妙だし、中途半端と言えば中途半端だ。あとエンドクレジットと音楽を流した後に、子供のおもちゃが置かれた家の内部を映すのも作為的すぎて、このあたりのセンスというのか、感覚が私とはあまり合わないと感じた。(エンドクレジットの時点で劇場を出た人がいたが、それはかわいそう。) 最も登場回数の多い城南高校とマッキーのエピソードの場面は、手紙のあとに再配置され、あきとのどかの共有している幸福な時代の思い出としての場面であるということがより強化されてこちらに感じられる、という意図があると思うが、それもむしろ空虚に感じられた。なんだかとりとめなくディスっている感じになってきたが、こういうことをいろいろ考える余地があると言う意味では見てよかったし、また何年か後にみたい。

そしてこの映画を見る直前に、劇場のロビーで横田創の「埋葬」を読み終わった。偶然にも、王国と共通する要素がありながら、男女の力関係がその裏面のような話だった。まず殺人があり、それにいたるまでになにがあったのか語られる構造、一人の女を二人で奪い合う構造などが共通しており、そしてシーツの王国と同じようなものとしてプールのなかのテントがある。埋葬を読んでいてまず感じたのが、岡田利規みたいだなということで、とくに悦子の饒舌から三月の5日間を連想した。よく知らなかったが著者は脚本も書いており、この埋葬も演劇として上演されているらしい。たまたま重なったから比べてしまうけれど、語られている言葉として圧倒的に王国より埋葬の方が私には真に迫って感じられた。もうこの小説について詳しく書く元気がないから今日は引用して済ませてしまうけれど、生きている身体はもちろん死があるからより貴重なものとして扱われるわけで、だから死を空白にしてしまうのではなく、埋め尽くしたその余剰の言葉として生を語るということがこの小説の試みだった。

ものごころついたときからいずれは死ぬと、死なないひとはいないと知っているのに誰もが平気な顔して生きていられるのは、ものごころついたときからずっと変わらないことだから。急にそうなった、そうと決まったことではなくて、いま現実に生きているわたしたちがわたしたちとして生きることになるよりずっと前からずっと変わらないくらい、とてもおおきなことだから、どうすることもできないことだから忘れられる。忘れないと生きていけないからあえてそうしているのでも、むりにそうしようとしているのでもなくて、植物が日の光に向かって葉をひろげるように自然とわたしたちは死ぬことを忘れて生きていられる。忘れることだけがいきることであるかのように生きていられる。だからなんかちょっと安心した。あたしが死ぬと悲しむひとがいるのも知ってる。とてもおおきなこととして、いやでも毎日思わずには、思い出さずにはいられないひとがいるのも知ってる。あたしにもそういうひとがたくさんいるように、たくさんのひとがあたしのことをとてもおおきなこととして受け止めてくれているのも知ってる。だけどもし本当に、そのひとにとってそれがとてもおおきなことであるなら、つまりはどうすることもできないこととしてあたしのことを、あたしが生きていたこととおなじように、あたしがしんだことを受け止めてくれるなら、あたしのことを思い出さない日は1日だってないままあたしのことを忘れてくれると思う。(……) p.120

 

久しぶりに長い文章を書こうと思ったら筋肉がなまりまくっているしとても疲れたし多分翌朝文章を直したくなってくると思う。来年は最低月一更新を目指したいです。

2024年7月8月の日記

 

7/1 Mon

有給にして正解だった。山尾悠子の『初夏ものがたり』を読んで、こんなに可読性の高いものを書けるひとなのだから、飛ぶ孔雀などの文の操作を幻想の言葉で隠さず真面目に取り合うべきだと改めて思う。私のもっている飛ぶ孔雀は単行本文庫本ともにサイン入りで汚せないためもう一冊文庫本を買おうと思って買ってない。はじめて山尾悠子のサインを見たとき意外と字汚いなと思いませんか。

7/4 Thu

もちろん全員のことがわかるとは思っていないのだが、どういう思考をたどった結果その行動に至るのかを考えた時よくわからない人は多くいて、スレッズなんか見ると(ツイッター以上に)あまりにも愚かとしか思えない言説に溢れかえっている。芸能人の不倫に憤る人などが最たる例だが、どうしてそんなにどうでもいいことに熱心になるんだろう、自分には関係ない事柄なのに、なぜ見知らぬ人に説教をしても良いと思えるの、など本当に不思議でそういう人に直接あったらぜひ問い詰めて見たいところだが、会ったことがないのでわからない。おそらくそうした人に限って都知事選が自分の意見を反映する機会だとは認識しておらず、根本的に近さや遠さの捉え方が違うのかもしれない。

7/5 Fri

だらだら残業しつつ、いまさら葬送のフリーレンのアニメを最後まで見た。ほどほどに面白かった。穏やかな日常系かつファンタジー冒険系の、ありそうでなかった感じが受けるのもわかるし、フェルン萌え〜もわかるし(ヒンメル萌えはわからん)、人気もなるほどねと一年越しに思うのだった。

7/16 Tue

いい感じの雨。雨の日に街を歩くとindigo la Endの夢のあとにが流れる身体にまだあり、高校の図書館の静かさも同時に思い出す。この記事で書かれていたことを考えた。

ビジュって言うな、今すぐ死ね|Aomatsu Akira

まずビジュっていうより顔って言った方がいいってことに関しては、ビジュっていうとき顔以外のスタイリングとかも含めた総合的な意味で使っててむしろ顔が整ってるわけではないけどなんかイケてると思わせるアイドルとかが出てくるから使われるようになったと思ってた。まあ私はほぼ使わない言葉でツイート検索してもビジュアルとしか出てこなかった。そもそも美しすぎる人以外の容姿について特に思うことがない。それでビジュって言葉の響きが軽すぎてカジュアルに見た目に言及することになってるっていうのはそうだとは思うけど、ビジュが爆発してる!とかってほぼ何も言ってないし、生身の人間だけでなく犬猫やキャラにも使うから、みなビジュビジュ言いまくってむしろルッキズムを打破する方向がありうるのではないかと思ったけど楽観的すぎるかもしれない。でもだっておっぱいがデカくてかわいいねとか言われるよりは数百倍マシではないでしょうか。身体のパーツごとに言及するよりビジュっていうなんかざっくりとした言葉で言われる方が気にならない。ビジュって言葉が流行ったせいでネットで容姿に言及されるようになってしまったというなら、その言葉がないうちからジャッジされてきた側の性別としては、ふーんと他人行儀になるほかない。私は女は愛嬌っていう言葉が死ぬほど嫌いで、愛嬌とかケアとかそういう目に見えないけど不均衡に求められるものの方に気持ち悪さを感じている。だから、ぱるるあたりから塩対応で人気なアイドルとかが出てきたのはわりといい流れで、あのちゃんとかは特別枠すぎるかもしれないけど、見た目と切り分けられた性格や言動も見られるようになっていると感じる(まあサンプルが顔のいい人ばかりなので、顔も悪くて愛嬌もない人はどうなのっていうのは残る)。とめどなくなってきたが、とにかく女に対して、顔の良さと愛嬌のある感じをまとめて「かわいげ」として認識していた頃より、ビジュという単純に見た目の問題として切り出し他方が良いという可能性もある。

7/18 Thu

また膀胱炎になりしょんぼり。生活習慣の問題なのか疲労で免疫が下がった結果なのか。前なった時も仕事が忙しい時期ではあったので疲れは何らかの可能性がありそうだが、検査して抗生剤をもらうのに4000円くらいかかるため嫌だ。なんとなく喫煙を始めてしまった。ピースのスーパーライトとソブラニーとソブラニーカクテルを試した。高いところからいくのはどうなのか。でも味はピースがよくて、高ければいいってわけでもないのかと思った。ソブラニーカクテルはカラフルでかわいい。ヘルタースケルターのりりこが吸ってるらしい。

7/20 Sat

毎日暑すぎる。アマベルでセールになってたアイスブルーのワンピースを買った。あんまり出かけないのでもう服いらないのに。今日はグレイルのワンピを着てでたら、こだわりのない安物は街で自信をなくすし、ナンパに声をかけられようものならより最悪な気持ちになるためやっぱりよくないと思った。誰かに声をかけられてもノイキャンイヤホンでなにかしら聴いていると本当に何を言っているかわからない点はありがたい。高校の同級生で官僚をやっている人と会った。本当に忙しくて大変そうすぎて、私はなんて楽な人生を選んでいるんだろうと顧みる。あまりにストイックだからどんな正義のもとにこの人が行動しているのか昔から気になっているのだが、正面から聞いてみたことがない。

7/26 Fri

午後休、炎天下を歩きネイルに行く。イメージ画像を見せてその通りにやるということだったのだが、思っていたよりオレンジっぽい色を塗られて、ちょっと想定と違いすぎるのでやり直してもらった。気まずいけど一ヶ月は目に入るものなので仕方ない。最終的には想定通りになったがネイリストが動揺してか、フレンチのラインがやや歪んでいる。sと待ち合わせ、西荻アテスウェイへ。ジェラートダブルでカシス系のものとアールグレイのものを頼む。不思議な形のメレンゲも添えられており、とっても美味しい。駅から離れているがバスがあることがわかったので、また行きたい。

7/30 Tue

仕事の圧迫感がないと、まあ会社員も悪くないか、と思ってしまう。中谷礼二の『実況・西洋建築史』がよかったので建築にある程度詳しくなりたいと思って、建築行脚シリーズも図書館でめくってみたが、入り方としては違うかも。

8/1 Thu

煙草屋で、ピースのアロマロイヤルとリトルシガーを買ってみた。ピース愛好家のようになっている。このバニラみたいな甘いにおいの煙草が好きなので、今後他を試しても結局戻りそうな予感はある。煙草は匂いと煙の様子を眺めて愉しむものだと思っているが、それはお香でよいのでは?と気がつき、昔買って眠らせていたお香を出してきて火をつけた。お香たてが欲しい。

8/2 Fri

今週は仕事がなかったけど来週からまた忙しそうなのでたまの休暇。昨日辛ラーメンじゃがりこを食べたからか、お腹の調子を崩して伏せっていた。食べすぎるとこうなると頭ではわかっているのに食べ始めると忘れて食べたいだけ食べてしまう、こういうのも摂食障害というんだろうか。食べてるときだけ過集中という感じ。久々に下剤を飲んだ。中谷礼二の本にちらと出てきて知った、《中野本町の家》という建築にすごく興味を惹かれ、そこに住んでいた三人の女性のインタビュー本を読んだ。

File85. 家をおっ建てたくなったときに読む本|昨日、なに読んだ?|水原 涼|webちくま(1/3)

8/3 Sat

本屋で5冊ほど買い込み(1.6万円)、高校の友人に会った。酔っ払いのノリで高校の同窓会の出席ボタンを押してみたが、果たして…

8/4 Sun

日記は引用をした方が面白いと認識しているのだが、引用筋みたいなものが落ちて特に引用したいところを見つけられない。これは本の側ではなく確実に私の側の問題である。

8/5 Mon

ウィンストンキャスターホワイトを吸ってみたら一番気に入りました。タール6mgくらいが吸いやすいみたいです、あとこれも甘い匂い。この時期誕生日の人が多くて、LINEのトップのところにお誕生日ですっていうのが表示されるから、祝おうかなと思ってトーク画面を開くと、去年の私がおめでとう!って言って、相手がありがとう!って言ったところで終わってて、つまり私の誕生日は祝われていなくて、そっと画面を閉じるということが3回くらいあった。自己認識として、人から嫌われてはないけど好かれてもないくらいの感覚だったけど、わりと嫌われてるのかもしれない。やっぱり同窓会大丈夫なのかしら。

8/7 Wed

夕方から突然強い雨になって雷もすごい日が今年は明らかに多い。雨も雷も家から眺める分には楽しくて良い。思わず動画を撮りたくなってしまう。東畑開人『居るのはつらいよ』を読んだが特に感想がない。語り口調がさむいなと思ってしまって飛ばし気味だったからかもしれない。私は大学のカウンセリングも、一般のカウンセリングも試してみたことがあるが、違和感の方が強くて一回でやめてしまった。ああいうのは継続してやることに意味があるのだと思うが、具体的な身体症状などの悩みがないと自己演出の感じが強くて、こう言ったらああ返されるだろうという予想の範囲を超えた会話にならないし、まあ結局必要としていなかったということになるのだろう。

8/10 Sat

四連休の一日目。今日は部屋の掃除をして大体終わってしまった。このあいだ柴崎友香の『あらゆることは今起こる』を読んでから、自分のADHDと言えそうな気質についてふと考えることが増えた。たとえば片付けができない、というのもそうだと言えそうだが、私が苦手なのは、出したものをしまう、開けた引き出しを閉める、洗濯物をしまう、とかそういう”戻し”の小さな作業で、それが積み重なった結果状態として散らかっている、ということになる。片付けといったときに、そうした日常の一連の動作としてある細々としたことはできないが、今日のように割と時間のかかる「掃除」というタスクとして実行することはできる。あと、あれこれ同時並行でやってしまうことが多い。仕事のタスクも一つ一つやればいいものを、一つやっているとあれもやらなきゃ、と思い出したり、リンクを開いた先で別のことをやったりした結果、10以上のエクセルファイルや20以上のタブが開かれ、PCの動作が重くなって、ああ閉じないと、、と思う。でも処理能力は高めだからか、最終的に締め切りには間に合っている。本も何冊も並行で読む。この日記もよく書きかけのまま放置される。カフェなどで喋る時、手元のストローの包み紙をよくいじっている。というか対面だとどこをみていいかわからないので、隣にいたほうがよく話せる。忘れ物や大事な時の遅刻はほぼない。といったようにまあそんなに困ってはいないけど、あるといえばありそう、程度のものだ。よくコンサータを飲むと脳が静かになるというけれど、今私の状態がうるさいのかどうかがわからない。別に名づけは必要としていないけど、診断テストは楽しそうだからちょっと受けてみたいなと思う。

8/11 Sun

『崇高の修辞学』『布団の中から蜂起せよ』『10:04』『ティンカー・クリークのほとりで』『2666』『野川』などを乱雑に読む。引用筋を取り戻すために乗代雄介のワインディングノートも読み返し、あとは恐山がnoteで公開している日記も遡って読んでいる。本を読むのに必要なのは孤独だと思う。労働と読書は反しないが、孤独がなければ本を読む必要がない。

8/12 Mon

ベン・ラーナー『10:04』読み終えた。かなりよかった。ゼーバルトの系譜(テジュ・コールとか)といわれていて、実際写真が数枚挿入され、ご丁寧にベンヤミンのキャプションを添えたクレーの新しい天使まであるのだが、なんというかトーンとして感傷が全くなく、皮肉がきいている。かといって全てを小馬鹿にするというわけでもなく、現代の小説で何をすべきかをよく考えて実行したという感じがする。技巧に走りすぎる感もなく、視点人物である男の情けないエピソード(歯を抜くのに半麻酔するか局所麻酔にするかで悶々としたりする)や生協で聞くアラブ系アメリカ人のアイデンティティに関する話など、ひとつひとつが面白い。そしてそうした小説内で起きた出来事を、主人公の男が小説に書き、『ニューヨーカー』に掲載され、周りの人もそれを読んでいるというメタ構造もあり、たのしい。まあ書く書かれる私の小説って結構やり尽くされてきているけれども、この主人公は詩をも書き(ベン・ラーナーがそう)、ホイットマンの話がよく出てくるというところが特徴だろうか。「僕が詩を愛する理由の一つは、虚構と非虚構との区別にあまり意味がないということだった。詩自体の強度に比べればテキストと世界との対応はさほど重要ではない。詩を読んでいる現在の時制において、いかなる感情の可能性が開かれるかが問題なのだ」(191頁)。書くことで、「複数の未来をはらんだ本物の現在」へと変わるような行為。  夜散歩しながら、冥丁の「古風Ⅲ」を聴いてた。このアルバムが一番好きかもしれない、ピアノの音が多くてビートの感じがしないから。冥丁は夏のイメージが強い。特に時間を無駄にしている感覚はないのだが、一日にできることが思ったより少なくて、つい夜更かししたくなる。

8/13 Tue

有給で休み。世の中の会社員で夏休みが一週間くらいある人ってもともと会社に備わってるのかそれとも有給休暇が消費されてしまうのかどっちなんだろう?私はどこで有給使ってどれくらい残しておくかを結構考える。昨日は2時すぎに寝たはずだけど、起きたら12時前で、私の適性睡眠時間って10時間くらいなのではと思う。スターレイルの光円錐(武器)って名前が「だが戦争は終わらない」とか「記憶の中の姿」とか「おやすみなさいと寝顔」とか独特なのだが、素材集めの依頼の名前(そもそもここに名付け必要だったのか?)も変わってて、「生まれながらに服従する」という文字列をみて毎日どきっとする。フーコー的主体ってことですか…。あと「アーカーシャの記録」っていうものあって、ガーデンオブリコレクションとスメールのアーカーシャ端末って関係あるのかな。原神のスメールのアーカーシャのアイデアって本当にすごく面白く、このアイデアだけで大長編SF小説が書けそう。一見スマホの延長にあるような近未来的な便利な端末だけど、人々の夢を収穫して原動力とするとか、元は500年前に神が大義名分のために作ったけど現在教令院っていう賢い組織がそれを転用して新たな神を作ろうとしているのとか、そこにループものを入れ込んだゲーム体験をさせて、本当にスメールの世界任務は凝っていた。

冥丁を流してお香をたいた部屋にいるとかなり京都の雰囲気になる。小さい頃から色々と神社仏閣を巡らされそこそこつまらないなと感じてきた(たまたま小学生のとき京都の近くに居ただけだからと思ってきたが、私がそういうところに行っても大人しくしてるタイプの子供だったからだろうかと今ふと思った)が、ひんやりした寺の御堂の中の記憶があるのはいいことだな。松栄堂の白川っていう匂いが好き。明日からの仕事が嫌で3時をまわってしまった。

アーカーシャシステム - 未確定原神考察

8/14 Wed

いやいやながら仕事。午前中はごろごろしてたけど午後に取り返したのでえらかった。年数経るにつれ上の人(といっても特定の人だが)について思うことが多くなってきてよくない。悪気はそんなにない(ちょっとはある)かもだけど、上にいる人として地味にやだな~ポイントが溜まってきて、イライラすることも増えた。まあチームの人みんな思ってることだからもう転職いただくか人事配置を考える人が頑張るしかないのだけど。今転寿司の列に並びながら書いてるけど、平日だからもっと人少ないと思ってた。夏休みパワーなのか。つぶ貝、しめ鯖、あぶらがれい、マグロユッケ、あなごを食べた。そういえばオリンピックのことを何ひとつわからないまま終わっていた。

8/15 Thu

いやいや仕事してるわりに仕事が早かったために余計なタスクが降ってきてしまった。仕事早いのをさすが〜とか言われるとえへへと頑張ってしまうのでちょろいかもしれないけど、早い方が損する構造ってどうにかならないんだろうか、ならないんだろうな。サブウェイのシュリンプアヒージョなるサンドを食べた。パンをひさしぶりに食べた。夜に母が来てドイツ土産のハリボーやら巨峰やらをくれた。

8/16 Fri

実際に目で見た風景より、文から想像した頭の中の風景のほうが記憶としてよく残っていることがある。雨はそれを触発しやすい。

8/17 Sat

サロンでネイルをオフすると高くつくから自分でやろうと思って色々買い揃えてやってみたが、時間がかかりすぎるし綺麗にできないしで嫌になり、明日の予約を入れた。結局お金のかかり方としては一番高くついた…… こういうときはより悪いお金の失い方、たとえばどうでもいい飲み会で終電を逃してタクシーに乗る、とかよりマシだとか考えるしかない。ここ数日ちょっと調子が悪い。あのちゃん166cn44kgかあそうだよね、今私は何キロなのかわからないけれど、あと5キロくらい痩せたら理想の体型になるのではないかと思う。

8/20 Tue

異様に眠い。何もしたくない…。なんでか知らないけど今回はPMSも生理痛も重たい。どれくらい生理のせいなのかがわからないが、とても調子が悪くて、誰にも何も言われたくないし仕事もきつい、全体の進行が遅れない程度にはやってるけども。なんとなく職場の雰囲気も悪いし全部無理かもしれない。

8/21 Wed

今日はあらかじめ決めていた早退、フレックスのありがたみ。エミリーテンプルキュートのコートを見に行った。こんな時期にコート決めなくてはならないのおかしいよ…と思いつつ、二年ほどロリィタブランドコートを見てみてそんなに心惹かれるものがないことがわかったので、これは!となったものを見ておく必要があった。コートって大事だから…冬はコートがすべてだから…。結果、迷いに迷ってエミキュのロングコートとメロバスのショートコートを買い、12万円の出費。一回の会計としては最高額の可能性がある。こうやって自分を生かすしかない。太宰にこういう一節がある。乗代雄介のブログからの孫引きです。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

「葉」

もらえるわけではないので自分で先のものを買うのです。見ている間にすごい雨になって、近くの店に駆け込んでガレットを食べた。フランス語を喋る愛想の良い店員のいるところで、前にも行ったことがある。閉店間際のラフォーレに駆け込んで、ミホマツでパニエを買った。それにしてもすごい出費だ…

8/23 Fri

この二日で20時間くらいスプラをした。ひさしぶりにやってド下手になっていたがまあ普通くらいにもどった。エイムが良くないのでもみじかわかばでちまちまとボムを投げ続ける戦法をしてる。

8/24 Sat

スプラをしながら推しの子の二期を最新まで見たがこれはいったい何を描きたい作品なんだ…と思う。2.5次元舞台の話が長すぎて双子の話からはずれてきていて、(宝塚とかミュージカルとか専業の人とは異なった人たちが)どのように演技をするかの話をしており、アイドルを描きたかったというわけではないらしい。

8/26 Mon

いやいや月曜。仕事は暇なときほど嫌さが際立つかもしれない。朝昼をしっかり食べたらてきめんにお腹が痛くなり、やっぱり適正量が1.5食分くらいなんだろう。食べたいものはたくさんあるのに。せっかくサロンで綺麗にネイル落としてもらったけど、補強の塗るやつとか買ったけど、結局折れて短くなってしまい、自爪のまま伸ばしておくのは難しいのだとわかった。最近はネイルシールとか色々あるしそのうち試してみよう。

8/28 Wed

原神ver5.0アプデ日。大きなバージョンアップは初めてでわくわくした。探索に新たな要素が加わって、こんなオープンワールドゲームを無料でやっていいのですか?と思う。iPadでやってるけど、PCでやりたくなる。相変わらず食にとらわれており、毎日何か買いに出かけてしまう。えのきとお菓子をいっぱい食べている。

8/29 Fri

ニュースを見ていないので雨のひどさをあまり実感していない。雨は嬉しい。最近はスープとか作ってるし、普通の掃除だけじゃなくて排水溝やクローゼットなどのちょっとめんどくさい掃除もしているしえらいなと思っているけれど、どうせすぐ汚れるし生活は虚しい。