2023-02-05(神の孔/醒めた)

いつもいつも同じところをぐるぐると巡っている。2019年の日記やツイートなどをみても、みずからの死に向かってしまう気持ちは同じ質のもので何も変わりがない。

「自殺なさるんですか」
と、私の住んでいた小山の多い住宅街で、そんな小山に沿った道を歩いていて、或る男が私に言った。
「いいえ」
と、きっぱり私は言い、すこし笑った。
「そんな感じがするなあ、あなたって、自殺するんでしょ」
「いいえ。でも、どうして?」
私は訊ね返す。
「さっき、あんなことをおっしゃったからなあ」
「何か、言いました?たのしいお喋りをしていたのではなかったかしら」
「今を、思い出す、とか」
「そう言いましたわね、私って、もう死んでいて、今こうしてここに生きてることを思い出してるのだって。今こうしてここに生きてるのでなく、これを、すでに死んでいる私が思い出してる、という印象を、私はどうしても払いのけることができないのよ」
「そんな変なこと言う人、誰もありませんからね。まともな頭で言えば、あなたは先どりして今を見ておられるんだ」
冬枯れした山肌のすすきや雑草のしろっぽい色に、冬の終りの明るい日射しが天空からいっせいに降ってきている、と感じられる、人気のない道である。
「何人かの人に言われたことはあります、私が自殺するんではないか、と」
「そうでしょ、そうでしょ、それがあなたから匂ってくるんです」
私より数年、年上の、その男は、別に深刻な話題としてでなく、夢想の領分に属するようなこととして、それにこだわっている。
「どうもありがとう。でも、間違ってる。私はそうではありません。自殺なんて、もう若い頃に通り越してしまっています。とんでもない、今さら」
「そう、若い頃、ぼくらの環境では、ぽつりぽつりそういう奴らがあったなあ」
何年か前の、そんな会話を、思い出し磨き出ししていると、先程からのうつらうつらが潮が引くように引いていき、あの亡命者の夢も臨在感がなくなっていき、そうして私は醒めに醒めて呟いてみた。
私って、或る年齢以来、自分の内部へ内部へ降りるようになったのだわ。死んでいるのに近い深さへ。

 

高橋たか子『亡命者』、講談社文芸文庫、59-60頁

 

通り越せるだろうか。通り越せたとして、神に近づこうとする以外のなにで生きるのだろう。

 

わたくしたちは死んでいて だがすばらしいことにやってくるかもしれない新しい人間たちの豊饒なこやしとなることができる。いま必要なのは真の狂気だ、天才の狂気ではなく えせの狂気をかなぐりすてて 人々が自らのうちに探りつづける——人間はなんでありえるかの、その未知の実存への限りない旅——らせん状の回転である。それは神への発見の旅であり 意識的に生きることなのだ。

 

山本陽子「神の孔は深淵の穴」『山本陽子全集 第一巻』

 

ただこういう文章を集め集めして、ながめて、もう私の終わりを知っていて、もう知ってしまったところからいかに真理を探すということなのだろうか。

 

不在の神を追究しつづけたい。真理はさらに先にあると、あなたは神ではないと言いつづけたい。祭壇の前で絶対神に仕える幸福をたぶん私はとてもよく知っているし、それを求めてもいる。でも、それでも、そこに跪いていてはいけない。それはつねに変化しつづけ先へと進むから、私も変化しつづけ日々新たにならなくてはいけない。いつまでも同じ言葉を使うことでは、いつまでもそれを見続けることにはならない。それには名前がない、名前を知りたい。名前をつけたい。そうすれば、その名前を捨てることでもっと先にゆける。私は自分が何をしようとしているか知っている。私は自分が何をしようとしているか知らない。

二階堂奥歯「八本脚の蝶」、2003年1月26日(日) その四