2023-01-27(湯/喩)

 

「何ひとつ怯えずに君が眠っていたらいい、とか、何度でもやさしい夢だけみてていいよ、とかそういう愛の形態が美しいと思う」と2021年10月27日にツイートしていた。どちらもplastic treeの曲の歌詞だ。セカイ系的世界観ともいえるかもしれないが、いろいろ残酷なことのある現実世界から愛する人だけ隔離して、わたし/ぼくがシェルターになってあげるよ、みたいなのに弱いのかもしれない。眠るのが好きなだけかも。

夢に関する文章で好きなのも多い。またプルーストを引きたいところだが、プルーストエピグラフとして置かれている金井美恵子の「水鏡」でも引いておこう。

今にも雨が降りそうな重苦しい天気で、むし暑い空気には藻の繁殖した、腐敗した水のにおいがしていた。ずっと列車に乗っていたせいで、身体中の節々が(ことに腰骨の蝶番が)痛み、食事をとるよりは何処かで早く横になって眠りたいのかもしれないのだが、どちらの欲求が優位なのか実のところあやふやだ。お湯につかって——たっぷりとお湯を張った風呂に浸って、肉体というこの厚ぼったい輪郭を曖昧に溶かしながら、お湯と皮膚の境界を消し去り、すっかり水と一緒になってしまったら、もう、眠る必要もないのだが、柔らかな湯気を表面から立ちのぼらせているお湯に入っていると、窓の外から呼ぶ声が聞えてくる。呼ぶ声ではなく、窓の外を通って行く歌声だったろうか。乳色の靄と水滴に覆われた窓ガラスを通過して陽の光がお湯の表面に降り注ぎ、風呂桶の上り湯の蓋に置いたリンゴの真紅の表面——淡黄色の果肉の水分がクチクラ層の艶やかな赤い外皮によって蒸散することをまぬがれている、甘酸っぱい球体——に無数の小さな水滴の球がむすばれ、やがて表面を覆っていた水滴は彎曲面を辷り落ちて、リンゴはただ薄っすらと濡れているだけになる。

夢というよりお風呂の引用になってしまった。お風呂に入っていると窓の外から声が聞こえてくるというのは囚われの女の場面にもちかい。お湯に浸かって小説を読んでいる時だけが仕事のある平日の五日間で充実した時間である。むしろ風呂以外のところで本があまり読めなくなっている。

 

 

隠喩という修辞は、ひとたびその語法がひろく公認されてしまうと、はじめにもってきた新鮮な衝撃力をなくし、陳腐な修辞にすぎなくなる。これはあらゆる言語表現の運命でもあろう。しかし反面、それゆえに、人間がもっている限られた言葉を古びた因襲的語法から洗い浄め、それに力といのちを吹き入れる詩人の使命が存在するともいえる。まえにもいったことだが、隠喩というのは本来それが一回かぎりの語法であるのがこの修辞の生命なのである。その意味で、ひとつの隠喩を発見するには、鋭い感性と自由な想像力による対象の「詩的認識」がその都度要求されるのである。

保苅瑞穂『印象と隠喩』161頁

 

エクリチュールフェミニンがあるとしたら、それは隠喩を習慣的使用から奪還したもの(イリガライふうにいうと濫喩)でしかないと思っている。ただ隠喩とか濫喩っていうと修辞の問題でしかないと思われるから、喩というのがよいのかもしれない。

 

言語の表現の美は作者がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。これは、たとえてみれば、作者が現実の世界のなかで〈社会〉とのひとつの関係をえらびとったこととおなじ意味性をもっている。そして、つぎに言語のあらわす場面の転換が、えらびとられた場面からより高度に抽出されたものとしてやってくる。この意味は作者が現実の世界のなかで〈社会〉との動的な関係のなかに意識的にまた無意識的にはいりこんだことにたとえることができる。そのあとさらに、場面の転換からより高度に抽出されたものとして喩がやってくる。そして喩のもんだいは作者が現実の世界で、現に〈社会〉と動的な関係にあるじぶん自身を、じぶんの外におかれたものとみなし、本来のじぶんを回復しようとする無意識のはたらきにかられていることににている。

吉本隆明「言語にとって美とはなにか」『全集8』、晶文社、145頁