藤枝静男「空気頭」について

 

はじめに

 

 日本の近現代小説を一考するうえで、「私小説」の系譜を無視することはできない。私小説とは、「書くこと」と「私」という小説における根源的な要素それ自体を題材とし、小説という形式にする試みのことである。仮にその源流を田山花袋の『蒲団』(1907年)とすると、私小説の歴史は約百年のことであり、数多の小説を私小説の流れのなかに位置づけることができる。本稿では、「私はこれから私の〈私小説〉を書いてみたいと思う」という驚くべき宣言からはじまる、藤枝静男の「空気頭」という小説について論じる。藤枝静男は、志賀直哉を公式の師匠と仰ぎ、また笙野頼子から師匠と仰がれている人物である。1908年に生まれ、戦中は医師として働き、戦後(1947年、39歳)から執筆活動を始めた。私小説の歴史の特異点ともいえるこの小説は、いかなる時代的背景から生み出され、いかなる「私」を描いているのだろうか。

 

 

特権的な私

 

 戦後の日本における「私」はどのように問題化されていたのか。藤枝は「志賀直哉天皇中野重治[1](1975年7月)という文章のなかで、志賀直哉中野重治の書簡や小説を書き並べ、小説内の「私」という位置の特権、ひいては最も特権的な「私」たる天皇をめぐって決裂してしまった両者の争点を第三者的に観察してゆく。出来事としては、1946年、中野の「安倍さんの『さん』」という文章を読んで激怒した志賀が、「新日本文学会」を脱退してしまったことである。藤枝は当時の書簡を並べ、そのいきさつを丁寧に説明するとともに、彼らのやりとりの内容が天皇制と天皇個人、あるいは小説と小説内の「私」に関する問題であったことを明らかにする。志賀は「今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。然し天皇制には責任があると思ふ」と書き、天皇天皇制を分離したうえで個人としての天皇を責めることはできないとしている。それに対して中野は、「国民は飢えていて天皇とその一家とは食いふとっている」という、依然裕福で食うに困らない地位にある天皇に対して嫌悪を顕にしている。また中野は、志賀の『暗夜行路』の語り手である謙作が、特権階級的な意識をにじませていることを批判する。そのような小説に対するある種の社会的な批判は、志賀には「芸術に成心を持ちこむ」とうつり、それゆえ「小説を中野君のやうな態度でしか見なければゐられぬという事は不幸」と切り捨ててしまう。

 中野の『五勺の酒』(1947年)には、「問題は天皇制と天皇個人との問題だ。天皇制廃止と民族道徳樹立との関係だ。あるいは天皇その人の人間的救済の問題だ」[2]という一節が示すように、「天皇天皇制からの解放」を訴える「僕」の語りがある。これを藤枝は、この小説の発表前年に志賀からなされた指摘を、中野は自己批判的に受け取って書いたのではないかとしているのである。たしかに「僕」の主張は志賀と同じものだが、その真偽のほどはわからない。ここで藤枝は、志賀の特権的な自我と中野の国家対抗的自我という対立構造を解きほぐしてなんとか両者の一致の点を見つけようとしながら、自らはそのどちらにも同意することができ、どちらでもないような書き方をしている[3]

 ところで藤枝自身は天皇についてどう書いているのか。「志賀直哉天皇中野重治」を書いたのと同年の1975年11月の時評では、このように書いている。

 

天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先に来た。いかに『作られた』からと言って、あれで人間であるとは言えぬ。天皇制の「被害者」とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。〔…〕三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にも喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はないか。冥途の土産に読んで行きたい。[4]

 

 中野は天皇を哀れで滑稽な人間として描写した[5]。藤枝はさらに天皇を「人間であるとは言えぬ」とまでいい、悲劇にも喜劇にもならない「糞リアリズム」の描写を望んでいる。この「糞リアリズム」という表現を、藤枝は『空気頭』の描写について説明する際にも用いている。大きな手術が終わって「おなかが空いたあ」と「たてつづけに喋舌っている」妻に対して、「私」が「妻を哀れに思い、愛を感じた。半分死人となった妻に、はじめて心からの愛情を持った」と思う場面(50-51)である。川西政明にこの場面について指摘されると、藤枝は「それは、だって、事実だから。妻のそういう言葉で、僕は非常に衝撃を受けたんだよ。それは本当のリアリズムなんだ。糞リアリズムといってもよい」[6]という。藤枝は小説で直接的に天皇について書いたわけではない[7]。しかし、私という存在に「糞リアリズム」的に迫った結果、人間であるはずの私が人間でなくなっていくという解体が起こることは間違いない。『田紳有楽』(1976年)がその最も極端な例で、「私は池の底に住む一個の志野筒形グイ呑みである」とまでになるのだ。『空気頭』の語り手は一応人間の私を保っているものの、その構成によっても、「空気」による治療法によっても崩壊の兆しはみえている。以下、「空気頭」の私がいかなる語りをしているのかみていきたい。

 

 

分岐する私

 

 「空気頭」という題の小説は二つ存在する。1952年に『近代文学』に書かれたもの(以下「初稿」と呼ぶ)と、1967年に『群像』に書かれたものである[8]。一般に流通している講談社文芸文庫に収められているのは、後年の完成稿の方だ。完成稿は、①私小説を書くと宣言し、妻の結核の治療と向きあう私の語り(1966年の視点)[9]、②上半盲の症状がある私の語り、③1967年の私の日記、の○で区切られた三つの部分からなる。初稿は、「東京医科大学中退の精神薄弱性インポテント患者A君」が、自らの上半盲の症状とその治療法(空気を頭に送り込むこと)を、「神経科専攻の君」に対して説明するという形式をとっており、内容的には完成稿の②の部分にあたる。ただし、同一の名を与えられた初稿と完成稿には決定的な違いがあり、その違いが「空気頭」を特異な「私小説」へとならしめたと考えられる。

 まずはその構成の違いである。付け加えられた①の部分は、長く続く妻の結核治療の様子が私から語られる。藤枝の妻が肋骨と左肺の切除手術をしたのが1962年ごろであり、初稿から完成稿のあいだに実際の出来事としてあったことだとわかる。そのためこの部分は、冒頭で瀧井孝作が言ったという私小説のあり方、「自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬもの」(38)だということもできる。しかしそのように示されている私小説のあり方、「一分一厘も歪めることなく写す」ことがそもそも可能かどうか、それをしたところで「リアリズム」になるのか、「空気頭」の全体の構成が疑っていることは間違いないだろう。

 藤枝作品の「私」(章と名を与えられることもある)には、家族に対しての強いこだわりがある。長年にわたる繰り返しの治療で弱っている妻や、幼い娘が抜歯で泣いているのをみて、私は「肉親の見苦しい姿は、そのまま理屈抜きに私自身の醜さとして映る」(43)のだと憎悪をあらわにする。このような妻とその裏返しとしての自分への嫌悪は①の部分で通底する感情となる。しかし私は決して妻の治療を諦めようとはせず、「冷静に歩を進めて行けばよい」(59)と気丈な様子をみせている。この治療に対しての姿勢は、②の部分の末尾で、「いったん道をみつければ、あとは努力次第です。だから私は努力してこの装置に改良を加え、結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります」(124)という姿勢と共通する「私」のものだということもできるだろう。ただし、①の引用した前文のあとには、不穏な両側の行空きで「今日は妻の死んだときのことを楽しく空想した」(59)という一文が挟まれる。その文から後は、過去の回想が多く挟まれ、「空想」や「想像」の言葉も多く登場し、虚実や時制が曖昧なまま②の部分へと続く。このなかで印象的な回想場面として、私と妻が私の故郷に帰って墓掃除をした際に、私の父の眠る墓をみた妻が、「わたしはこのお墓に入るのは嫌です」と思いつめたように言ったことがある。それを聞くと、「反射的に、(裏切られた)というような、異様な不快感が私を襲った。——あれが俺だ」(68)と、私は「俺」という男性中心の家系に連なっている自らの存在を感じとる。父から引き継ぐ家系とそれに抵抗する妻は、蓮實重彦の分析の通り、巨木の枝の分岐に擬えることができる[10]。私は「ふた股に分かれ」た松の巨木を見ているうちに①から②へと移行するのであり、私自身がその分岐の地点に立たされているのだとわかる。②からは口調がですます調になり、結核の妻がいるのは共通しているものの、はっきりと同一の「私」だとは同定できないような移り変わりがある[11]。この分岐された私こそが「私の私小説」なのだ。

 

 

抑圧/解放される私

 

 さて、二つ目の決定的な違いは、上半盲の原因にある。初稿においては、「己」は「昭和二十年の八月二十三日の暁方、ビルマの山の中で、頭の鉢の後ろの方を、横からパンと射ち抜かれ」る経験をした。その「鉄砲玉と一緒に、Apaticoccus carnosusとLogococcus robustustが射込まれ」、「あの黴菌共が、意識を失って抵抗力のまるでなくなった己の脳味噌を、勝手に貪食して分裂を繰返し、それで己はとうとう己の視野の上半分を彼奴等に喰われて了った」(14-15)のだという。つまり直接的な戦争体験がその病の原因となっている。それに対して完成稿の方は、症状を自覚したのは「戦争末期のころ」であり、「ヴィールス類似の起炎菌」によって神経が圧迫されているという部分は同じなのだが、そのヴィールスは「遺伝的に、血液を通して私の体内に伝えられ」たのだとする(76)。そして遺伝しているのは「淫蕩の血」であり、「性慾の昂進と精神の不安と重圧」が上半盲の症状として表れ出ているのだと、私は解釈している。私は医者の身分であるから戦争中は「海軍火薬廠のあたりでのうのうと暮らし」(75)、直接的な肉体の損傷を受けたわけではない。このことは①の部分でも強調されていて、「私自身は戦争なんかで肉体的にも精神的にも何の傷も受けはしなかった」(藤枝により近い「私」はもちろん完成稿の方であり、そこには戦争に対しての距離感の違いがうかがえる。敗戦後まもなくの日々では、「何もかもが突然断ち切られてしかも自分の身辺には何も始まらなかった、あのポカンとした空白、物理的空白」があり、それが「上半盲の発現と性衝動を同時に抑制した原動力となっていた」(84)。このような「空白」を、藤枝は「詔勅と占領との間」[12](1974年)という随筆でも書いている。「戦争は終わったが敵兵の姿は見えないという、形式的には全く平和な、しかし精神的には不安に満ち満ちた一瞬の時期であった。あの空白期に遭遇した人々の肉体と精神を如実に描いてくれた人が一人もいない。誰か書いてくれぬか」と。誰かに書いてほしいというのは藤枝独特の謙遜の言い回しなのかもしれないが、「空気頭」の「空気」とは、このような戦後の日本の人々がそれぞれ体験した個人的な肉体感覚としてあるといえる。

 私は戦後、一度は上半盲と性慾を増進させる方へと向かい、人糞をつかった薬の開発に励むのだが、「時がたつにつれて」「だんだんと」自分の病気に対する認識の誤りを悟る(115)。「打ち勝ちがたい敵」である性慾から「自然の恩寵によって解放された現在」では、人工的に脳内に空気を送り込むことによって「私に遺伝し私につきまとって来たあのヴィールスの増殖」は「抑圧」され、「過去の私自身から物理的に脱却」することができるようになった(123)。しかし、果たして私はその病と治療から完全に解放されたのだろうか。「私を苦しめる重圧そのものであり、また私自身の姿でもあるよう」な飛翔することのない「蛾」の幻影は、一度私を解放したかに思える(123)。しかし文章の順序では前にあっても、時系列的には「解放」の後にある②の冒頭では、「自分の頭のなかが、電車の振動につれてガサガサという、蛾の羽撃くような乾いた音」(70)をたてているという描写があり、私は蛾=自らの重圧から逃れられていないことがわかる。さらに、③の1967年の日記では私がベトナム戦争の映画を見たと書かれている(127-128)。初稿から完成稿のあいだには新たな戦争があり、「私」は戦争からもまた解放されていない。そして映画のなかで、ベトナム兵に殴られたベトコンに対して「かばうように付き添って歩」いたにもかかわらず水に沈めて平然と殺した青年を見ると、自らもまたこのような「平気で弱いものに冷酷になれる人、味方に似たふるまいを見せていて裏切る人」のうちの一人だと思うのだ。私は、画面の中の戦争を自分のものとして感じながら、しかしその後には「風呂に五分間はいって、またベッドに戻」るというような「平生の生活」を送っている。1967年の私は、「気質に対する常に不愉快な人工的な抑圧」にすぎないはずの人格を誉められたこと、「人格者」と云われたことが癪にさわり、この自らに課した「人工的な抑圧」に無意識に従ってしまうことを恐れている(126)。抑圧と解放の間で葛藤する私は、志賀と中野のあいだで揺れていた藤枝とともに、戦後の空気を重たく頭に残した人間のひとつのあり方として描かれているのだ。

 

[1] 藤枝静男志賀直哉天皇中野重治』、講談社文芸文庫、2011年、141-196頁

[2] 中野重治「五勺の酒」『中野重治全集3』、筑摩書房、1996年、13頁

[3] Cf.笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』、講談社、2020年、187頁

[4]藤枝静男著作集 第四巻』、講談社、1977年、378頁。この箇所は、文庫解説で朝吹真理子が引用しているのに加え、「私が藤枝静男の熱心な良き読者であるわけがない」という金井美恵子が『カストロの尻』(新潮社、2017年)でも丸々引用している部分である。

[5] 「五勺の酒」のこのような人間としての天皇の描写に革新性をみているのが渡部直己『不敬文学論序説』(ちくま学芸文庫、2006年、140-153頁)である。

[6] 藤枝静男川西政明「〈極北〉の私小説」『文学界』1985年5月、65頁

[7] ただ、「土中の庭」(1970年)の冒頭は、昭憲皇太后が作ったとされる短歌を誤解した少年の私=章が、「皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景」を想像する場面である。深沢七郎の『風流夢譚』と似たユーモアではないだろうか。

[8] それぞれ『藤枝静男著作集 第六巻』(講談社、1977年)を参照し、頁数は本文中の丸括弧内に示す。

[9] 講談社文芸文庫版にはないが、『著作集』では妻のことが語られる前(40頁)にも○がある。ここではまとめて①とするが、この断裂を重要と考えることもできる。

[10] 蓮實重彦藤枝静男論 分岐と彷徨」『「私小説」を読む』、中央公論社、1979年、58-172頁

[11] 佐藤淳二は①から②への移行を「映画的なモンタージュ」になぞらえている。Cf. 佐藤淳二「〈差異〉の身体=機械学」(『機械=身体のポリティーク』、中山昭彦・吉田司雄編、青弓社、2006年所収)。本稿は佐藤の論考から学んだところも多いが、題名からしてわかるようにポストモダン的語彙が多分に用いられているためそれを取り除いた次第である。

[12] 『著作集 第四巻』、前掲書、432頁