エリック・ロメールの映画技法

学部三年の冬に書いたものです。一つの作家の映画を三つ以上見てそれらについて論じる、という課題でした。ちょっとレトリックを覚えたのかもしれない。

 

 

「私が長らく不満だったのは、映画であれば画面にラジオもステレオも音楽家も見えないにもかかわらず、然るべき時に妙なる音楽が流れ登場人物たちはいとも簡単に甘美な気分に入り込めるのに、現実生活においてはそういう風にうまく音楽が流れはしないことなの。」       ——松浦理英子『セバスチャン』

 

 

 

 現実と映画はいったい何が違うのか。アンドレ・バザンが提起したリアリズムの問題を「コペルニクス的な革命[1]」と呼んだエリック・ロメールの映画には、大きく分けて二種類ある。ロメール自身が脚本を書き、現代の日常的な男女の恋愛模様を描く「六つの教訓物語」「喜劇と格言」「四季物語」のようなシリーズ作と、文学作品を題材にし、セットやCGを用いて中世やフランス革命時を描く『聖杯伝説』『O侯爵夫人』『グレースと公爵』などである。よく知られているのは前者の作品群であり、後者は例外的なものとみなされることも多いが、映画という現実を追求するというスタンスは一貫している。

 

身振りと自然さ

 カメラの前でロメールの書いた台詞をそのまま語って演じてみせる役者たちを、自然だ、と形容してしまうのは、高機能のカメラがついた機械を日常的に携帯する私たちがカメラのレンズを向けられることにあまりにも慣れてしまっているからではない。たしかに、派手な殺人も起こらなければ超常現象も起こらず、ただ(中産階級と思われる)人々が街や家で会話する様子を映すことの多いロメールの映画は、生活のなかで見聞きする時間や風景がそのまま映っているように思える。そもそも、日常におけるすべての動作が「自然」かどうかはわからない。たとえば『美しき結婚』のサビーヌは、結婚することに意気込むあまりエドモンの前で自然に話せなくて落ち込むように、恋する相手の前では自然にできないかもしれないし、わざと自然を装うこともあるだろう。人物の語る言葉も、場所もあらかじめ監督によって決められ作り込まれているにもかかわらず、作為ではなく自然にみえるとすれば、それは俳優の身振りによるものだ。監督はクランク・インの半年から一年ほど前から、俳優たちの個性を理解するために話し合い、カメラの前でのリハーサルをおこなうという[2]。それによって俳優の自然さを引き出すのである。その自然さとは、カメラの前にいるということを感じさせないということである。
 『レネットとミラベル/四つの冒険』の三話目「物乞い、窃盗常習犯、女詐欺師」では、街中にいる物乞い[3]にお金を渡すレネットと、その時は渡さなかったミラベルとの会話が歩きながら繰り広げられる。手持ちの16ミリカメラは二人を、最初は正面から、やがてミラベルの横から、そして後ろから、人通りの多い街の制約された動きで収める(図A)。その間も車や街のざわめきで声を消されそうになったり、陽光に目を細めたりしながら、言い合いに熱が入って思わず立ち止まり、特にレネットは手を大きく使って話し合う。そのような身体の動きが自然さを装うのだ。
 その後の、ミラベルがスーパーマーケットで万引きする女を目撃する場面は、ミラベルの視線と万引きの女、それを怪しむスーパーの管理員二人の空間的な配置が見事なシークエンスである(図B)。これら二つともお金や犯罪にまつわるブレッソン的テーマともいえるシーンであり、ロメールブレッソンの俳優の用い方(素人を使ったり、リハーサルをくり返して「自然な」あるいは「機械的な」動作を引き出すような手法)は、しばしば比較される[4]。しかしここでロメールは、万引きの女がサーモンを鞄(万引きにしてはかなり目立つ青色の衣服と鞄である)に入れる時の、手元のみのショット以外は、全身、あるいは腰あたりまでを収める。「手のしぐさは、私にとって、顔の表情と同じくらい大切なものです[5]」と語るロメールは、しかし身体を断片化して切り取らずに、顔と手の両方を収め、あくまでその個人全身の表現を尊重するという手法を取る。また、万引きした物の内わけはサーモン、鴨のコンフィ、シャンパン、レモンというなんとも奇妙な取り合わせだが、このようなディティールも映ってしまうということが、映画の現実性である。ロメールは「超直接 hyperdirect」という言葉を使ってこのことを説明している[6]。「女は万引きをした」という一文で表されることに、どういう表情で周りを窺っていたのか、何を盗ったのか、何を着ていたのか、その場所にはどれくらい人がいて、どんな音楽が流れていたか、というような細部が否応なしに付随する。そうした過度な直接さが映画の自然さを支えている。

 

 

リアリズムと虚構

 バザンの有名な『市民ケーン』論では、一般にパンフォーカスと呼ばれる、画面の深い(つまり平面上では上下に事物が配置される)ショットによって、手前と奥とで多層的な動きを作り出すことがリアリズムをめざす立場であると論じられる。並行モンタージュのような現実では知覚しえないものを映す操作が介入しない、という点でそれは現実に近しいものなのだ[7]
 ロメールの映画は、バザンのリアリズムの実践であると言われることがあるが、そのわりにロメールは、どちらかといえば、手前の事物や人物のみにフォーカスして、陰影のないのっぺりとした画面を作ることの方が多い。『聖杯伝説』ではそれがセットであることをありありと晒す、単色の背景が用いられているし、石造のパリの街並みでも、緑のある郊外の公園でも、青みがかった靄のたちこめる海岸でも目を惹く赤色の衣装は、背景から人物を浮かせる。ロメールは「平野の映画」と「山の映画」という表現で自身の映画を種別している[8]。『クレールの膝』は、「山の映画」に分類され、切り返しショットを用いずに、同一ショット内の平面の上下で人物がやりとりすることが多いと自身は語っている。もちろんそういう場面(図C)もあるが、実際は切り返しショット(図D)もよく用いられていて、たしかに「山」ではあるのだが、セザンヌの絵画のような奥行きのない山である。
 しかし珍しく奥行きをうまく利用した場面が、『飛行士の妻』にはある。アンヌの(元)恋人である男(=飛行士)がアンヌとは別の女といるところを「機械的に」尾行してきてしまったフランソワが、リュシーと出会い、公園でさりげなく見張る場面である。手前に腰掛けるフランソワとリュシーの間に、池を挟んで向こう側にいる飛行士とその恋人(とフランソワにはみえる人)がぼんやりと映っている(図E)。鳥のさえずりや公園にいる人たちの声なども聞こえるが、マイクは草陰に囲われるところにあり、同時録音であってもノイズが入りすぎないようにコントロールされている[9]。この映画は、題名が映画内では結局誰かわからない「飛行士の妻」であることからして、人物の不在とフランソワの夢、あるいは虚構とが主題になっている。二人の会話[10]で面白いのは、フランソワにリュシーが、「映画の主人公の気分で純真な恋人を疑っているだけよ」と言うことだ。映画の中の人が「映画みたい」と表現することは、映画内の時間がひとつの現実であり、同時に私たちが虚構を見ているのだということを示す効果がある。また、ここではフランソワの語る話と、それを「作り話」だと思うリュシーとが異なる虚構の次元にあることを表している。フランソワの「作り話」の中の人物が奥にいることで、虚構の人物がぼんやりとした実在をみせるのである。また、この場面では写真が不在の人物の証拠を示すものとして機能する。アンヌの写真をみせるフランソワ、飛行士と一緒にいる女とをなんとかして写真に収めようとするリュシー。瞬間を切り取る写真がリアリズムの表現であるという前提のうえで、しかし、アンヌの静止画は実際よりも寂しく見えるとフランソワが言い、リュシーの試みも失敗に終わるのは、写真に収められた瞬間が捉えきれずにつねにずれてしまうということを示してもいる。語る、撮る、見る、聴く、解釈する——映画という虚構を成立させるいくつもの作業が、驚くべき自然さのうえで成り立つのがロメールの映画である。

 

[1] エリック・ロメール『美の味わい』、梅本洋一武田潔訳、勁草書房、1988年、127頁

[2] 『WAVE』35号(1992年11月)、ペヨトル工房、32頁

[3] 御園生涼子は、ロメールの処女長編『獅子座』で、浮浪者になった主人公が不意に転がり込んだ遺産によりブルジョワ社会へと救済されたことや、以後のシリーズ作でも「街頭からは彼がかつて映し出して見せた浮浪者の姿は締め出されている。そこには民衆の身体はない」ことを指摘している。『レネットとミラベル』では珍しく浮浪者の姿があるのだが、街頭にしゃがみ込んだ浮浪者に、レネットもミラベルも立ったままお金を与えるという上下関係が崩れるということはなく、ブルジョワ的道徳の映画という側面は否めない。御園生涼子「望遠鏡の視野 ロメールストローブ=ユイレのリアリズムをめぐって」『ユリイカ』2002年11月、青土社、179頁

[4] ここでは取り上げることができなかったが、二人の映画のパスカルへの参照、神学的な側面も比較項として挙げることができる。Cf.ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』、宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年、148頁。またドストエフスキーの『やさしい女』の映画化も、ブレッソンが行う前にロメールが構想していたというが、それは幻に終わった。『WAVE』、前掲書、193-199頁

[5] ジャン・ドゥーシェとの対話「エリック・ロメール、確かな証拠」『ユリイカ』、前掲書、132頁

[6] ロメール「映画作品と、話法の三つの面——間接/直接/超直接」『美の味わい』、前掲書、108-119頁

[7] 野崎歓「映画を信じた男——アンドレ・バザン論」『言語文化』32号(1995年)、一橋大学語学研究室、25-35頁。

[8]エリック・ロメール、確かな証拠」『ユリイカ』、前掲書、134頁

[9] 『WAVE』、前掲書、96頁

[10] ちなみにここでも二人は「自然に naturel!」と声を掛け合ってさも尾行していないかのようにみせるのである。

 

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図A

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図B

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図B

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図B

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図C

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図C

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図D

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図D