2021-02-14(欺瞞/不毛/共同体)


戦争を知らない

 四時間目、修学旅行の作文の発表会だ。わたしたちは先月、三泊四日で広島・長崎をめぐる修学旅行に行き、その感想の作文を書かされていた。広島・長崎という場所設定には大人の思惑を感じずにはいられなかった。
「みなさんは、鉄腕アトムを知っていますか。」
花岡さんの発表が始まった。花岡さんは白くてすべすべした肌にさくらんぼみたいな瞳をもち、長い髪はいつもさらさらで耳上のところからきっちりと編み込んでハーフアップにしている。優等生タイプの子で、もし花岡さんが死んだら、いつも明るく挨拶をしてくれて素直でいい子だったのに…みたいなコメントを近所のおばさんからもらえるだろう。
鉄腕アトムは、もとは手塚治虫の漫画で、そのあと1980年ごろにアニメとして放映されました。アニメや漫画を見たことがなくても、歌を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。アトムはその名の通り、原子力で動くキャラクターです。私の父がアトムを好きで、小さい頃から家ではたびたびビデオが流れていました。7つの能力を持ち、強くてかっこいい正義のヒーローのようなアトムに、私は憧れのようなものを持っていました。しかし、今回の修学旅行で原爆ドームを目の当たりにして、その考えは変わりました。なんの罪もない人々が原子爆弾ひとつであんなにも無残に殺されてしまうこと。その現実が強く私の胸に迫ってきたのです。正義のヒーローのアトムは人を殺すエネルギーと同じもので動いている、というアトムの暗い面も見なければならなかったのではないか、そう思いました。私たちは戦争を経験していませんが、無関心ではいけないと思います。まずは戦争や原爆の悲惨な事実を十分に知り、周りの人や未来の子供に伝えていくことが大切だと思います。みなさんも積極的に学んで伝えていきましょう。これで発表を終わります。」
原爆ドームを見ただけで戦争の悲惨さを訴えかけられる花岡さんの無邪気さに、わずかな羨望とほとんど吐き気のような違和感を覚えた。それにしても、なんて先生ウケする作文なんだろう。呼びかけから始める、経験をもとに自分の感情の変化を書く、社会に対する意見を述べる、いい作文のポイントを完璧におさえている。後ろのロッカーの近くにたつ先生をちらりと見ると、にっこりとして頷いていた。
発表を終えて満足したような表情を浮かべる花岡さんに拍手を送りつつ、感想シートに「わたしも戦争は許されないことだったと思います。同居している曽祖父が戦争を体験しているので、もっと話を聞いて、わたしが後世に伝えていきたいです。」と丁寧な字で書いた。

 

 

 一年の時に授業の課題(鉄腕アトムに関する詩を三つほど読んでなんか書く、というもの)として書いた拙い文章だが、これを読んだ人たちは皆、身に覚えがあると口にしていた。正直に書いてしまった不器用な(『最愛の子ども』の)真汐は職員室に呼ばれる羽目になった。
 私たちは全く思ってもないことをいとも簡単に語ってしまえ、いくらでも偽ることができ、やがてそれを自分のほんとうだと思いこむ。告白という制度が告白される内容を偽装すると言ってもいい。さらに他人の言葉までを、タイムラインやコメント欄の言葉をそのまま自分のものとしてあっさり引き受けてしまう。zocの動画のコメント欄を閉じたのは、自分の言葉で感想を持って欲しいからだと大森靖子が言っていた。至極真っ当なことだ。
 成績を枷にして書かされる文章の欺瞞と紋切り型にあふれた醜さは、学校を離れても蔓延っている。「たたかれるから」(あるいはもっと悪い場合「売れるから」)と「流行りのジェンダー」に「配慮した」ものを作ることができる。何にも知らなくてもハッシュタグで連帯の意を示すことができる。その論理は戦争プロパガンダと同じである。
 日記という本来他人の目から隠匿される場でさえも、そこに嘘のにおいをかぎとった(『違国日記』の)朝は、「自分に偽りなく書く」ということがわからなかった。

 

 本当の言葉で話がしたい、と思ってきた。本当のことをいうのは消耗する。私の本当を否定されると傷つく。だから偽のことを書き話し、感覚を鈍麻させる。そうすると、槙生のように「いいことにも悪いことにも心があまり動かな」くなってしまうのかもしれかなった。

 

フェミニズムに関してはあまり語りたくありません。私の知る限りこれくらい不毛な議論もないからです。わかる人には言わなくてもわかり、わからぬ人にはいくら言ってもわからないのがフェミニズムであります。あきらめるわけではありませんが、それより他に言いたいことは多々あるものですから。

 

ですぺら掲示板の二階堂奥歯の書き込み(2001年10月31日)

 

20年経ち、奥歯は今を生きていたらどう思うだろうか。

案外ツイッターはわからぬ人にリーチしうる場として機能することもあるかもしれない。不毛さにめげずに戦ってきた人々のおかげで今があるのだと思うし、たとえば『違国日記』は漫画だから普段本を読まないひとにも届く力がある。

 

でももっと遠くの世界がみたい。

 

二階堂奥歯なる私」など社会的な約束事に過ぎず、「思考者」(いや、「者」が邪魔ならいっそ「思考」でも「思惟」でも)は無名です。名前、自己同一性、そんな重いものを引きずっていたらどこにも行けません。言葉を軌跡としてただ飛べばよいのです。

 

脱自–恍惚の思考を展開したバタイユにナンシーが見出す共同体とは、人は実のところ一人ではおのれの死を完了しえないという点に存しており、似た者同士でありかつそれぞれ特異存在でもある人間の有限性が、つねにすでに分有されているという事態にほかならない。成員の死に意義を与えて回収する共同体ではなく、むしろ死こそがそもそも共同体的なのだ。「共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない」と記すナンシーは、ブランショの語彙を借りつつ、「共同体は、ブランショが無為と名づけたもののうちに必然的に生起する」と述べる。有限性の分有としての共同体はそれゆえ、企てや意志などとは無縁であり、何一つ生み出しはしない。
ナンシーはこのようにバタイユを読解しながら、全体主義の猛威を経た時代にあって共同体を無為の共同体として思考する。ところがナンシーによれば、バタイユは、ファシズムコミュニズムの時代のさなか、脱自的コミュニケーションにおける主体をめぐる思考を躓きの石として、脱自と共同体との二つの極に宙づりにされたまま、「本来の意味での共同体を思考するのを諦めた」という。

 

安原伸一朗「フランス的、たぶんフランス的な」『モーリス・ブランショ 政治的パッション』所収の訳者あとがき、144頁