2020-02-27(aiko的情緒/破滅者/鬱病的時間)

 

 


前の日記にaikoを聴いていると書いたけれど、今のiPhoneにはaikoの詩。しかはいってなかったのに、その後サブスクが解禁され、ずっと聴き続けてたら情緒がおかしくなってきた。こんな非常事態なので(今のところ生活に何の変わりもないが、学校が休みになると塾にたくさん流れてくるだろう。塾ももしかしたら閉まるのかもしれない)、なんとなくそわそわしているし。非日常、予測できないことが苦手なので恋もできなければ、こういう状況を非常にストレスに感じる。

 


誤読はこわい。文章の解釈は多様で自由ということが言われるけれど、誤訳がありうるように誤読・誤解はあって、それは避けなければならない。書かれていることを書かれているままに受け取るということを、まずはしたいし、そこを開き直ってしまうのはどうしようもない怠慢である。むろんこれは自戒を込めて言っている。アーレントの『全体主義の起原2』をちょっとずつ読んでいるのだが、飽きてきてしまった。すぐに本に飽きる。もうちょっと早く読み終われればいいのだけれど。

 


ベルンハルトの『破滅者』を読む前、帯などを見たときには破滅者=グールドなんでしょ、と思っていたけれど、それはまったく違って、グールドという圧倒的な天才の存在によって破滅(untergehen)してしまった人の話である。しかも、グールドによって破滅者(=ヴェルトハイマー)は命名され、彼ら双方と友人の「私」から二人の対比が語られる。しかも微妙に「私」はグレン寄りだということが示される。なかなか意地悪で面白い語りだ。

ヴェルトハイマーはことあるごとに、なにかしら謝っていた。しかもそれは謝る理由のないことだった。いっぽうグレンは、そもそも謝るという概念を知らなかった。グレンはけっして謝らなかった。われわれの概念にしたがえば絶えず謝る理由があったにもかかわらず、そうなのだった。ヴェルトハイマーは、人々が自分のことをどう考えているのかをなんとしても知りたがった。グレンはそうしたことになんの価値も置いていなかった。私じしんもまたそうであり、グレン同様、いわゆる周囲が自分のことをどう思っているかなど、つねにどうでもよかった。(271頁)

 


夕方からバイトのとき、それまでの時間をほとんど無為に過ごしているが、バイトはちゃんとやれる。木村敏『時間と自己』に書かれている鬱病患者の特徴がわりとあてはまるので驚いてしまった。社会的役割に過度に同一化してしまうこと、共同体の時間はきちんと守ること(まあ学校に遅刻したことがまったくないわけではなかったが、いつも時間のことは気にしてしまう)、非日常性を恐れ誕生日や記念日にはかなりのプレッシャーを感じることなど。これらが行き過ぎにならなければ社会的に良い人間とされるが、あまりに固執すると鬱病らしい。去年の今ごろはもっと精神状態がひどく、いちど大学の心療内科みたいなところに電話をかけたがうまく受け答えができなくて、それっきり病院はわたしの行くところではないと思っている。医者に医者という役割以上のものを求められない(情緒的関係を拒む)のも特徴らしい。本当にそうだと思う、だって迷惑がかかるし。

 

 

 

断片的にしか書けない。