2019-10-16(グリコのアイス/教師/断片)

 

さいきん気づいたこと。グリコのアイスが美味しい。バニラティエと牧場しぼりのラムレーズンが美味しいです。無類のラムレーズン好きなのでラミーの季節になって嬉しいけどまだラミーアイスに巡り会えていない。どこに売っているの。

 

本当はもっとしたいことがあるのに今は環境のせいでできない、みたいな感情がつねにある気がして、今が最高たのしいと思ったことって、もしかしたら歌っているときだけだったのかもしれない。なぜこんなにも不自由を感じているのだろう。本当にすべてが退屈だ。血が湧き肉が躍るような面白い物語を読みたい。自分が物語になってもいい。物語の恋に憧れて死を迎えたボヴァリー夫人のことをわたしは笑えない。

物語を愛する気持ちを強く持っていたい。というのも、どうしても批評っぽいことがお好きな人たちの話を聞くと、シニフィアン重視というか、構造や文体の前衛性みたいなものを称賛する傾向があり、そちらに流れてしまいそうになる。でも、わたしはたしかに物語にすくわれてきたのだし、今も物語を愛しているし、いくら批判されようともわたしは物語が好きですと胸を張って言いつづけたい。

 

いまのところで働き出して一年以上経って、そろそろ受験が近づくので仕事が重くなってきて、夢にまででてくる。塾講師の仕事はとても自分に向いていると思うけれど、教師という上の立場に立つのが好きなだけかもしれない。いまものすごく影響を受けてしまう人がいて、なんの本を読んでいてもなんとなくその人に繋がってしまうのでちょっと嫌なくらいなのだけれど、その人は教師という権威になることをとても嫌っているように見えて、同時にとても教えるのが上手い人だとおもう。あのくらい着実に知識が身につけばいいのに。

 

いろいろ雑多に読みたいといいつつ、相変わらずバトラーとドゥルーズ関連のものと女性作家の小説ばかりを読んでいる。小説への感度が下がってしまったのか、それとも面白い小説に出会ってないだけなのか、本を読む快楽を享受していないことが退屈の一因ではある。さいきんではル・クレジオ『春 その他の季節』やペリ=ロッシ『狂人の船』を読んだが、つまらなくはないが面白くもない、みたいな感じだった。狂人の船は終盤で急にフェミ色が濃くなるが、アダムとエバの物語をどう思うかを子供に書かせたもの(アダムは外に狩りをしに、エバは家で作業をしますみたいな内容)を入れる、というのがあってちょっと卑しいやり方だと思った。山尾悠子の『ラピスラズリ』は分量は薄いながらも細部までゆきとどいた緻密によくできた物語で、再読だったけれど楽しめた。でも今はもっと面白いものを求めている。

 

昔の日記を読むと四、五年くらいずっとだいたい同じようなことで悩んでてほんと馬鹿みたいと思う。人からの評価を気にしたり嫉妬したり愚痴を言いすぎて後悔したりツイッターをやりすぎたり油断して太ったりを繰り返している。ツイッターをする時間を減らすようにこころがけてはいるが、かなり思考回路がツイッターに毒されていて、こうやって文章を書くときもかなり断片っぽい感じになっているとおもう。なんども言ってることだけど、二年くらい電波の届かないところで静かに猫と本とともに暮らしたい。ツイッターをやってなかったら知らなかった有益な情報もいままでたくさんあったので完全にやめることができない。

もう疲れたのに。