2019-05-18(撹乱/塾)

 

ほぼ一日図書館にいて、バトラー読んだり眠ったり雑誌を拾い読みしたりしていた。

 

わたしが示唆したいのは、フェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説をつうじて機能するときの表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということである。

 

ジェンダー・トラブル新装版』(青土社)24p

 

帰りの電車で昔の先生に遭った。中学生のころ通っていた塾の先生は親の次にわたしを知っている気がする。

これは偏見かもしれないが、でも傾向として小説や詩を書いたり読んだりするのがすごく好きなひとは、学校でうまくやっていけなかったという人が多い。学校からの逃避手段として切実に本を読んでいたという人もいる。わたしはそうではなかった。同級生とも適切な距離で大したいざこざもなくうまくやっていた。今思うとそれが不思議でしょうがないが、でもたぶん、塾がすごく楽しかったことが学校にとらわれすぎずに済んだ要因だろう。中3の夏は8時間くらい硬い木の椅子に縛り付けでひたすら勉強していた(大学受験のときはこんなに勉強しなかった)けれどそれを苦とも思わなかったし、ひたすら詰め込み型のやり方があっていたのだと思う。なにより国語も数学も英語も理科も社会も先生が好きだった。学校の先生には過剰な熱心さを持つ人や明らかに頭の良くない人がいたけれど、そんな人はいなかった。仕事が大好きというわけでも嫌いというわけでもなさそうだった、大きな声で威圧するような振る舞いは決してしなかったし、話の通じる大人だと信頼していた。

あんまり楽しかったので志望した高校に入れても塾をやめる寂しさが勝ったのだけれど、それもすぐになくなると思ってた。まさか6年くらい経ってもまだ未練がましいなんてね。