2022-12-05(造花/閃光)

寒い。暖房はあまり好きじゃないから布類を重ねたり電気毛布で暖をとっている。電気毛布+コストコの分厚い毛布で結構暖かい。なんかやっぱりどうしても沈潜してしまう感じがあるので歌を歌いながらスプラトゥーンしてた。本当はゲーム音聞いた方がいいんだけど、聞かなくてもまあなんとかできる。S+の昇格戦になった。町田ちまのフォニィ、もう100回くらい聴いた気がする。出だしが本当に好きだけどこのまま行くとサビで声が死ぬので星街すいせいのキーで歌う。


サッカーを観戦している弟は突然叫んだり唸ったりするので結構怖い。弟ももう大きいので接触すると恐怖を感じることが多く、やっぱり早く一人暮らしをする必要がある。「男性性」の強い人はどうしても警戒しがちなので、まわりにいる人は自分の男性性に疑問・批判があったり中性的なタイプが振り返ってみると多いなと思う。しかし「女性性」の強い人もどちらかといえば苦手で、同性どうしの関係の方が難しい。というか女性に好かれてないと実感することが多く、一対一ではあまり問題ないものの女性の集団には馴染めなくて自分から離れてしまうことが多かった。かといって私自身は女性性の強い人として見られている気がする。…こういうことを考えてもいま自分の力ではとくにどうすることもできない。

 

上半期しいたけ占いが出てたので読んだ。水瓶座はなんか良い感じだった。守ってきた夜の火がまばゆい光となって日々を輝かせてくれるらしい。

「非日常の日に、特別にキラキラ光っていた夜の思い出」

これがですね、結構水瓶座の「人生観を決めちゃう」ぐらいに、特別なパワーを持っていくものなのです。子どものころのあなたは、「早く大人になって、キラキラした夜の時間を過ごしていきたい」と決意する。夜は、昼間の時間には話し合えなかった本音の話を伝えることができます。特別な夜には、昼間に着ていた格好から着替えて、パーティーに出かけることもできる。照明が暗転し、夢のような出し物が次の演目で飛び出してくる。あなたは闇の中を照らす、温かい光、強い光、閃光のように駆け抜けていく光。そのような、色々な種類の光に心を躍らせていきます。豊かな闇の下でこそ、あなたの歴史や未来はつくられてきたのだから。あなたは再び「特別な夜」に触れることを夢見ていたかもしれません。やっとここまで来ました。2023年の上半期は、あなたにとって「特別な夜」が幾夜も繰り返されていきます。やっと心を躍らせる時間が来た。闇を照らし、夜を駆ける。それがあなたの2023年上半期の1番大事なミッションなのです。

占星術のことわりと信じてる。あとは「恋する力」が復活するとか書かれていた。みえる世界が広くなればいいなと思う。

 

お風呂で『ビリジアン』と『プルースト・夢の方法』読んだ。雨の日の浴室は集中できる気がする。

2022-12-04(勝手に逃げろ/冬/見逃し)

人付き合いについて考えるところの多い日々だった。妙な具合に外向的な気分になっており、人に話しかけられたり話しかけたりすることを厭わなくなっている。突然かかってくる電話は相変わらず苦手だけど、夜に時間を約束して話すことの独特な心地よさがある。イデオロギーに回収されないロマンチックラブの可能性を信じたいし、ロマンチックラブではなくても人間たちは仲良くなれるということを信じたい。また人間全員嫌いのモードがやってくることもあるだろうし、こういう自分の心持ちのサイクルをある程度俯瞰で捉えられるようになったと思う。冬は大好きだけど、寒さや日照時間のせいで気分が落ち込むこともあることを念頭に置いておかなければならない。

 

卒論も載せ終わったことだしもっと雑に頻度をあげて日記を書いていきたい。なにを読んでも見てもとくに何も感じられないということが続いているが、何も感じていないということを書いていく。きっと書いたらなにか感じたことになるんじゃないかと思う。

先月はシネマメンバーズに入って、ゴダール『右側に気をつけろ』『ウィークエンド』『パッション』『勝手に逃げろ/人生』『中国女』『はなればなれに』、ロメールの四季四部作をみた。ゴダールロメールもだいたい有名どころはみたな〜という実績が欲しいだけかもしれないと感じるくらい、『冬物語』のロマンチックさ以外に特になんの印象も残っていない。かなしい。平倉圭の『ゴダール的方法』は、ゴダールの映像と音とが編集という作業によっていかに特異に同期/非同期しているかを詳細に示している。

人間の視-聴覚には必然的な限界があり、誰もそれを免れることはできない。聞きなれないアラビア語=外国語だったからではない。世界は本質的には無限の外国語として現れている。何が「翻訳」されるべきなのかは事前には確定されない。聴き取られるべき声は、当の本人にとっても、事が起こる前には確定できない。そして事が起きたときには、すべてが取り返しがつかないのだ。だが何を聴き取ればいいか分からないとき、いったい私たちはどうやって耳を傾ければいいのか。聴くべき「別」の音声はどこから流れてくるのか。出来事のいまだ聴かれざる声と接続するにはどうしたらいいのか。〔…〕いかにして個々の記憶は、みずからに固有の映像をもつのか。私たちは画面に明滅し続ける九つの映像すべてを同時に見ることはできず、記憶しておくこともできない。むしろ「同時にすべてを見ることができない」という私たちの身体の認知限界こそが、観客にとっての「時間」を構成している。それゆえ、記憶を編み直し、時間を組み立てなおすことは、映画を見るー聴く身体を作り直すことに直結する。(174-5頁)

やっぱりこうした視聴覚の問題を、日常的な存在であるVtuberの問題として考えてしまう。3Dモデルの映像をみていて、たとえばわざわざキャプチャされないからそこに映っていない水の存在を、かれらかのじょらたちが飲んでいるという事実によって私たちはいとも簡単に信じる。

今日はラカン協会のシンポジウムがあって聞いていた。めあての清水知子の発表は再確認の内容で、卒論をいま読むとやっぱり文章がかなり足りてないとは思うが、まあ似たような話をしていた。怠惰から『非暴力の力』を参照せずに書いたけど、昨日書店で立ち読みしたらフロイトの話をわりとしていることを知った。でもたぶんそんなに異なったことは言っていないはず(これから確認する)。清水さんの話でエリザベス・グロスの話題が最後に少し出ており、やっぱりvolatile bodiesなどちゃんと読むべきか…と思った。PDFがネットにおちてたらよかったんだけど、おちてなさそうだしまず入手手段を考えなければならない。becoming undoneはkindleで出ていた。私が過去にグロスの話題をツイッターで出したことをきっかけにフォローしたという人がおり、そういうこともあるんだな、と思った。インターネットの良さ。

 

スプラトゥーンの話をここでほとんどしたことがなかったが、発売当初からすでに300時間くらいプレイしており、おもにこれのせいで思考が滞っていた節がある(でも後悔はしない)。最近出たもみじもいいけどわかばシューターが結局最適解なのではと思っています。サーモンランはでんせつ200くらいが限界っぽいかも。

 

ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学④

前回まで

はじめに

第一章

第二章

 

第三章 バトラーのメランコリー論の展開

3−1. 幻想的同一化

   バトラーの著作のなかで、精神分析的な同一化やメランコリーの理論と、ジェンダー・パフォーマティヴィティの議論は一見あまり噛み合っていないように思える。バトラー自身も『ジェンダー・トラブル』の一九九九年版序文で、「前半部はジェンダーというメランコリー構築を尋問しているが、後半では冒頭部の精神分析的な事柄が忘れられているように思われる」と述べ、「前半と後半で見られる乖離」を認めている*1。本章は、その乖離を埋めるべくして書かれる。
    さて、バトラーが精神分析における同一化(identification)という概念を援用し続けているのはなぜなのか。行為のまえに意図をもった主体を措定しない、という一貫した主張をもつバトラーにとって、同一化という概念は、どうしても同一化の前に同一化する主体の存在を想定させる点で、都合が悪いのではないだろうか。たとえば次のような一文。「少女が一人の少女になるのは、母親を欲望の対象として除外し、その除外された対象を自我の一部として、より明確にはメランコリー的同一化として組み込むような、禁止への服従を通してである」(PP176)。このような主張に対しては、バトラーがボーヴォワールの「ひとは女に生まれない、女になる」という一節に対して呈した、女の前に名指される「ひと」とはいったい誰なのかという問いがそのまま適用される。すなわち、母親に同一化する少女とはいったい誰なのか。とくにメランコリーに言及するとき、たしかにバトラーは対象に同一化する自己の存在を認めているようにみえ、そのかぎりでエイジェンシーという、主意主義的なエイジェントから厳密に区別された主体概念をみずから裏切っているように思われる。また、同一化は内部(=同一化する自己)と外部(=同一化される対象)を区別した上で、外部の対象を内部の自己に取り入れるということだ。これは、他者の自己に対する差異、すなわち他者の他者性を抹消するような行為ではないだろうか*2
 しかし、バトラーによれば同一化は他者を自己のうちに引き入れるような運動であり、自己は他者との関係において形成されるが、まず他者と自己の安定的な確立があって、そのあとに同一化が生じるのではない。この点はきわめて重要である。「メランコリーにおける他者の内在化は、外部の対象を内部の対象に復元するという単純な模倣ではない。内部と外部の区別がおこなわれるプロセスは、メランコリーがおこなう内在化によって、それ自体が生み出されるものだからである」*3。このような他者と自己の関わりにおける、自己の、とくにセクシュアリティの不安定なあり方をバトラーは「幻想 phantasm」*4と呼んでいる。つまりバトラーは、「幻想」や「虚構」という言葉を用いて他者と自己の境界を揺るがす同一化という営為をさらに虚構化あるいは脱実体化することで、アイデンティティの構造を二重にしているのだ(GT 99)。『問題=物質となる身体』(1993年)の第二、三章では、ジャック・ラカンの理論的語彙が用いられ、幻想的同一化について説明がなされている。バトラーの整理に従えば、ラカン的な同一化とは、同一化に先立って主体があるのではなく、むしろ同一化をとおして主体が形成されるような過程である。

 ラカン的な立場は、同一化は自我に先行するのみならず、イメージと同一化の関係が自我を確立する、と示唆している。さらに、こうした同一化の関係を通じて確立された自我は、それ自体一つの関係であり、さらには、そうした諸関係の累積の歴史なのである。(BTM100)


 バトラーはラカン鏡像段階論を、「『自我とエス』におけるフロイトの身体的自我の導入の書き直し」(BTM 96)として読んでいる。フロイトは「自我は、究極的には、身体的感覚、とりわけ身体の表面から発する感覚から出ている。自我は、このように、身体の表面の心的な投射とみなしてもよいかもしれない」*5(十八/347)と述べており、身体的自我を心的なものの効果として描き出しているようにもみえる。この記述を踏まえ、ラカンが、そしてバトラーが導入しようとしている考え方は、身体をある関係の中で構築された想像的なもの、すなわちイメージに根ざしたものとして捉えるということだ。さらにバトラーは、そこに「ファルスの意味作用」の議論を接続させ*6、身体と性差の意味作用のあいだに生じるアポリアを問題にしている。
 まだ言語を使えない生後六ヶ月から十八ヶ月の子供は、自他の区別がつかず、身体感覚が ばらばらの分裂状態を生きている。しかし鏡の中に自分の像を認めると、ここではじめて自 己を統一的な身体イメージとして捕捉することができる。このように自己の身体イメージ は、鏡像というひとつの他者を通じて獲得されるものなのである。さらにラカンは、想像界象徴界現実界という図式を用いて、心的なものと身体的なものの領域を描いた。想像界とは、主体の自己認識や他者への関係が、空間的に捉えられたイメージを介して形成される領域である。象徴界とは、およそあらゆる主体が拠って立つ言語の場を指す。そして現実界象徴界において捉えられないものの領域、典型的にはフロイトのいう欲動やエスの領域 のことである。ラカンによれば、子供はイメージに満ちた想像界から、言語で分節化された象徴界に参入することによって主体としての位置を獲得する。そこで問題となるのが、主体はどのようにして象徴界の論理によって性化されるかということである。
 男児をモデルとしたフロイトのエディプスコンプレクスは、父からの報復を恐れる去勢不安によって母への愛着を断念することで終結するのであった。男児は、母やその他の女性にペニスがないことに気が付き、それを去勢の結果なのだと解釈することで去勢不安を強化させる。そしてペニスを持つものである父に同一化し、父=男性の位置を引き受けるのだ。このようにフロイトは、ペニスの有無という身体的な差異の発見に基づいて性的ポジションが引き受けられるとしている。これに対してラカンは、身体器官としてのペニスではなく、特権的なシニフィアンであるファルスの作用が性差を規定するという、構造論的転換をおこなった。ファルスという象徴界を統御する記号が先にあり、その意味作用の両極に振り分けられるかたちで身体的性が規定されるのだ。
 ラカンによれば、幼い子どもは、養育者である母が自分の前に現れたりいなくなったりす るという事態を、+/−という記号的な価値の対立として受け取る。子どもはもちろん母が現前することを望むが、母もまた自分と同じように何かを望んでいるのだと想像する。母に欠如しており、それゆえに母がそれを欲望しているのだと子どもが想定する代数的な「x」 がファルスである。子どもは母の欲望を満たすファルスに想像的に同一化するが、母の欲望の対象が父に帰属していることを知ると、子どもにとってファルスは、母子の分離をもたらす父の法と結びついた象徴的なものとして機能する。そしてこの父の法が、男/女のポジションを定めることになる。かくして、女性はファルスであるもの、男性はファルスをもつものとして定位される。象徴界を統御するファルスによって身体を意味づけられることが、性差の規定となるのである。
 身体=セックスを引き受ける(assume)こととは、あるひとつの言語的なフィクション として、身体のイメージを身に帯びることである。ファルスによって男女の差が意味づけら れるというラカンの理論を利用して、バトラーはここで身体の虚構性を暴こうとする。身体はかならず象徴界のあとにやってきて構築されるものであり、その意味でバトラーは「セックスはすでにつねにジェンダー」(GT 29)なのだということができる。
 ただしバトラーが問題にしているのは、ラカンの理論において象徴界の意味づけの極は異性愛的な身体の二元論を強力に追認してしまっており、さらにその象徴界の法が変更不可能だとされていることだ。セックスの引き受けが象徴界のある位置に同一化することであるならば、象徴界の法に従えない身体の存在はその法の規範性を揺るがすのではないか。 バトラーは、セックスの引き受けである同一化は想像界の次元で起こり、象徴界の主体の自律性をむしろ崩していくものだとしている。「もし、性化されたある位置を引き受けること が、象徴界の領域内部に徴し付けられたある位置に同一化することであり、また、同一化することは、そうした象徴界の領域に接近する可能性を幻想化することを含意するとすれば、 そのとき、セックスの引き受けを強制する異性愛主義的制約は、《幻想》的同一化の統制を通じて機能している」(BTM 130)。セックスの引き受けはある身体イメージへの同一化であるが、この同一化は幻想化されている*7。幻想は現実の対立概念ではないし、バトラーへの批判においてしばしばいわれるように身体の物質性を無視しているわけでもない。バトラーが幻想というとき示しているのは、現実の身体の捉えがたさ、私たちが本質的で自然的だと思っている身体の脆さのことである。「幻想とは、既に形成された主体の活動ではなく、 主体をさまざまな同一化の位置に集約させたり、拡散させたりする活動として理解されるべきである」(BTM 366)。幻想はつねに主体の同一化を不安定な境界へと晒し、主体のうちへと包摂される物質性、あるいは反対にそこから棄却される物質性の存在をありありと 提示する。さらに、同一化する身体イメージは、社会と個人の歴史の中で繰り返し引用され 続けることによって絶えず変容し、統一的な形態では把捉できないものとなる。同一化は、 「二重の運動」として理解されなければならない。

同一化は象徴的なものを引用する際に、象徴界の法を(再)発動し、それに力を(再) 備給し、想像的例示に先行する構成的権威として、それに依拠しようとするのである。 しかし、象徴界の優位と権威は、あの再帰的反転——引用が、〔...〕従う先行的権威そのものを効果として存在を通じて構成されるという——を通じて構成される。(BTM 146)

 象徴界の法、すなわち異性愛的な身体の二元論的な規範に従うように強制される同一化 は、根本的に引用行為でありパフォーマティヴに法を変更させる可能性をもつ。そして、同一化という営為は一回きりの出来事ではない。バトラーは身体イメージへの同一化が社会の中で起こり続ける出来事であり、あるいはその同一化が完全に達成されることは決して なく失敗する可能性もあるという意味で《幻想》であると述べている。バトラーの批判的戦略は、「(異性愛主義的)性的差異をめぐるヘゲモニー象徴界を転位すること(displacement) であり、性源活動的快楽の場を構成するためのオルタナティヴな想像的図式を批判的に解放することである」(BTM 123)。

 

3−2. 隠喩と身体

 

 パフォーマティヴィティという J・L・オースティンらの理論を源泉とする言語的機能と、 メランコリー的ジェンダーを接続する紐帯のひとつが、ニコラ・アブラハムとマリア・トロ ークの「喪あるいはメランコリー」(1972 年)にあると考えられる。彼らの論の特徴は、フ ロイトよりもさらに、言語作用を重視することである。他者を自己に同一化ないし体内化させること、セックスを引き受けることは、他ならぬ言語的な操作においてなのだ。
 フロイトは「喪とメランコリー」で、カール・アブラハムの論文を参照し、メランコリー 的同一化がリビドー発達段階の口唇期、あるいは食人的な段階との関連があることを示し ている。少なくともこの論文においては同一化と(食べること=)体内化という言葉は、他 者を自己の内部に取り込むという点でほぼ同義に用いられている。バトラーもまた同一化と体内化を同義語として扱うことが多いが、その際参照されているのがこのアブラハムとトロークの著作である。「ジェンダー的パフォーマティヴィティは、メランコリーの分節化 と、喪失へのパントマイム的な反応——そこでは失われた他者が、自我を形成する同一化において体内化される——において現れる」(PP 209)。
 アブラハム&トロークは、取り込み(introjection)と体内化(incorporation)を厳密に区 分し、喪の作用を取り込みに、メランコリーの作用を体内化にそれぞれ対応させている。彼らは、フロイトの症例「狼男」の読み直しを通して、これらの概念を洗練させた。「狼男」 ことセルゲイ・パンケイエフは、ロシアの貴族階級出身で、姉の自殺、躁鬱病の父親の死などの困難な状況を経て、一九一〇年からフロイトの分析治療を受けた。夢の解釈をしていくなかで、フロイトはパンケイエフの強迫神経症の病因を幼少期の外傷的な体験の記憶、すな わち原光景に求めた。原光景とは、両親の性交場面を見るということであり、フロイトは実 際にパンケイエフが見たであろうこの光景と、夢の中の光景を関連させて意味づけしてい くことで、このようなトラウマ的体験が彼の神経症に影響を与えているとした。
 それに対してアブラハム&トロークは、姉によるパンケイエフへの誘惑を病理の発生源とし、またその姉からの誘惑は、姉と父の間にあった性的場面の反復だとしている。姉は、パンケイエフより二歳年上で、何事につけ彼より優れていて、特に詩の才能を父に認められていた。パンケイエフにとって姉は両親に認めてもらうにあたって面白くない競争相手であり、嫉妬の対象でもあった。また、パンケイエフは三歳の頃、姉からの誘惑、性器を弄ばれるということを経験した。性的な関心を触発された彼は、乳母の前で性器を弄んだが、そこで乳母は「そんなことをしていたそこに傷がつきますよ」というように、去勢の脅しによるしつけをした。これらの出来事の後のパンケイエフは、ひどい癇癪と、人が変わってしまったかのような性格の変化(今日の用語で言うところの解離のような現象)を起こしていた とされている。この人格の変化をアブラハム&トロークは、パンケイエフが他者を体内化した結果だと捉えている。パンケイエフの姉に対するアンビヴァレントな感情、両親に認められるような優れた人としての姉と、性的な触発をしてくる姉への感情を処理するための作業が体内化だったのである。この体内化は、「互いに両立不可能な二つの役割を、〈自我理想〉の役割と愛の〈対象〉の役割とを彼女〔=姉〕に合わせもたせる唯一可能な方法」*8である。
 さらに、アブラハム&トロークは、姉は実は父親から近親姦的な行為に晒されていたと仮定し、このトラウマ的経験が、パンケイエフの経験へと連鎖しているという解釈に至る。この姉の性被害体験は実際にあったかどうかを証明することができないが、アブラハム&トロークは、それが言葉にできない家族の秘密であり恥であったからこそ、体内化を引き起こしたのだとする。アブラハム&トロークの読解の特異さは、狼男の体内化が「埋葬語 cryptonyme」、あるタブー語を秘密に保つための言葉の音声的で即物的な置き換えによって生じたことだとしている点にある。パンケイエフは、ロシア語・ドイツ語・英語の三言語使用者であり、その三言語間で関連する単語の加工、言い換えが、言葉の未発達だった幼少期の体験を秘匿するのである*9。言語的操作において体内化するというのは、一体どういうことなのだろうか。
 取り込みも体内化も、対象を自己に引き入れるようなメカニズムではあるのだが、それら の区別には、隠喩の機能がはたらくかどうかが決定的な違いである。その喪失が意識的な喪は、対象が言語的な表象システムのなかにあり、隠喩の作用によってその対象を言語化=象徴化して取り込むことができる。

喪失した対象からリビドーをうまく置換させるには、その対象を意味すると同時に、それを他のものによって置き換える言葉の編成をつうじてなされなければならない。もとの対象からのこの置換は、言葉が不在を「比喩であらわし」、そうすることでそれを乗り超えていく、本質的に隠喩的な活動である。(GT 130  強調原文)

 隠喩とは言語の慣習的な置換の仕方のことであり、いわば、既存の言語の枠組み内で表現可能なものである。失った対象から別の対象へとリビドーの矛先を変更するとき、そこには言語による置換の作業があるのだ。それに対してメランコリーは、「ナルシシズム的に欠くことのできない対象の突然の喪失であり、一方でこの喪失に関するコミュニケーションが禁じられている」*10ために、その喪失を「喪失として自らを打ち明けることができない」*11フロイトの「喪とメランコリー」でも示されていたように、メランコリーにおける喪失は無意識的である。アブラハム&トロークの理論においては、その喪失はなんらかの社会的な規範によって禁じられているために無意識的に抑圧されたのだとされている。「喪失せざるをえなかったということ自体が否定の対象」になるのである。狼男にとって打ち明けられない喪失の体験とは姉からの性的な触発であり、姉にとっては父からの近親姦的な行為である。それが「埋葬語」という特異な対象として彼らの無意識に保存されている。ひるがえってバトラーは、異性愛的な主体は同性愛の喪失を二重に否定しているためにメランコリーに陥っているのだという。異性愛的な男性主体は、「自分は決して他の男を愛したことはなく、それゆえ決して他の男を失うことはなかった」(PP180)という喪の拒否によって構築されているのである。また、同性愛者の場合にも、エイズで命を失った人々が社会から哀悼されなかったために陥った、いわば実際に生きられたメランコリーがあった。ただし、その打ち明けられない無意識的な喪失は、たんに言語以前のものとして留まるわけではない。メランコリー的体内化は、言葉−対象をそのまま呑み込む。言語による意味的な解釈、隠喩化ができないために、メランコリー的体内化はある特別な言語作用、すなわち反隠喩の作用をはたらかせるのだ。アブラハム&トロークはこう述べる。

ファンタスム化を支配する手続きのうちに一つの言語活動を見ようと決意するならば、スタイル上の新しい比喩、すなわち比喩化を積極的に破壊する比喩として分類整理することがふさわしく、こうした比喩のためにわれわれは反隠喩という名称を提案しようと思う。語の字義通りの意味に立ち帰ることが問題なのではなくて——言葉(パロール)においてであれあるいは行為においてであれ——語の「比喩化の可能性」がいわば破壊されているように語を使用することが問題なのだということを明確にしておこう*12

 ここでは、言語と非言語という対立が示されているのではない。隠喩と反隠喩という言語の機能の対立であり、反隠喩は比喩の可能性そのものを破壊するようにはたらく。隠喩という言語の置換機能、意味づけの機能がはたらかない反隠喩は、その対象を「文字どおり」に体内化する。アブラハム&トロークは、文字どおりの体内化を「写真のイメージ」になぞらえ、隠喩と対立させている。狼男における文字どおりの体内化とは、姉を近親姦的な行為に晒した父の、ペニスを体内化するということである。そしてバトラーはこの体内化を、セックスの事実性を表す幻想として捉えている。

反隠喩的な活動である体内化は、喪失を身体のうえに、あるいは身体のなかに、文字どおり〔literal〕に表現し、それによって身体の事実性として——つまり身体が文字どおりの真実として「セックス」をもつときの手段として——立ち現れてくる。所与の「性感」帯に快楽や欲望を位置づけ、そして/または、禁じることは、ジェンダーの差異を生みだすメランコリーの所業であり、これは、身体の表面をすべておおうものである。(GT 131)

 この引用文において述べられているのは、身体が本質的で不変な「文字どおり」の事実とみなされる場合において、そこには体内化というメランコリーの作用がはたらいているということだ。体内化は、「セックス」と解剖学的性差と「自然なアイデンティティ」と「自然な欲望」とのあいだに漠然とした統一性を示し、その変容の系譜を忘却させる。隠喩という言語的な置換の以前にあるかのような身体には、実はべつの言語作用、反隠喩がはたらいているのである。言語の意味づけから逃れた無垢で自然な身体は存在しない。しかしメランコリーはその隠喩構造を隠蔽し、身体の「秘密の場所」のなかに否認された愛の対象と欲望を抱え込んで、異性愛的な身体、性器結合主義的な身体を自然とみなすような規範をさらに強化させるだろう。

体内化が幻想だということは、同一化がおこなわれるさいの体内化は〈文字どおり〉と錯覚する幻想——あるいは文字どおり化する幻想——だということである。まさにメランコリーの構造のせいで、身体の文字どおり化のプロセスは、その系譜を隠蔽し、「自然な事実」というカテゴリーのなかにみずからを位置づけるのである。(GT 133)

 メランコリーは、セックスとジェンダーを切り分けるように構造化をしたうえで、ジェンダーの構築性を隠蔽し、セックスを本質的で自然的なものとして定位する。バトラーが問題にしているのは、本来は隠喩的な置換がおこなわれているにもかかわらず、それが⻑きにわたって反復されることで物質化され、自然なものとみなされるような場合である。しかしその一方、隠喩の構造があるからこそ、その構造内部での喩の異なる用い方、すなわち濫喩の可能性がある*13。隠喩の本来もつ余剰性が規範的な物質の生産をパフォーマティヴにずらしていくのである*14。前節でのペニス/ファルスの議論がまさにそうである。ファルスは、本来ペニスという身体部位とは異なったシニフィアンであるにもかかわらず、まさに「ペニスではない」という否定の形で繰り返し参照されることによって物質化され、現実のペニスに近づいている。しかし隠喩的な置換の構造がそこにあるならば、ファルスはペニスから別の形で置換されるということ、すなわちレズビアン・ファルスというあり方の可能性が考えられるのだ。レズビアン・ファルスとは、ファルス「をもつ」位置と、「である」位置につくことを同時に可能にするシニフィアンである。ファルスという記号を利用しながら、その記号の固定性を揺るがすこと。たとえばリュス・イリガライは、ラカンの理論においてファルスの隠喩作用が特権化されていることに対抗して、女性的で流体的な換喩の重要性を訴えている*15。バトラーはイリガライの批判はある程度有効だとするが、しかしそのような二項対立は再び男根一元論的な言説へと収束してしまうとする。隠喩と対立関係にあるものではなく、隠喩の制度内部において隠喩の固定性を崩していくような濫喩の作用が重要なのである*16
 またバトラーは、このように本質的で自然な身体として捉えられていたものを、言語として虚構に晒すということを、「アレゴリー化」という概念でも説明している*17アレゴリー化の言葉が用いられるのは、ドラァグのパフォーマンスについての場面である。バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、パフォーマティヴィティをドラァグの衣装やメイクのような、主体の意志によって自由に選択できるものとして描いていると批判された。それを受けて『問題=物質となる身体』(とその後の『権力の心的な生』)においては、ドラァグアレゴリー化という言葉を用いて再び論じている。ドラァグのパフォーマンスは、異性愛的なメランコリーをアレゴリー化する。すなわち、ドラァグの女性性/男性性の過度な演出は、女性を愛する男性、男性を愛する女性という異性愛的主体の物語を一種の見せかけのかたちで曝け出し、その物語を過度に寓意化することで攪乱するのだ。

ドラァグは、ジェンダーを安定させる、一連のメランコリー的に体内化された諸幻想をアレゴリー化する。〔...〕ドラァグが、平凡な心的でパフォーマティヴな実践——それは、同性愛の可能性を断念することを通じて、つまり、異性愛的対象の領域と、それが愛することのできない対象の領域の双方を生み出す予めの排除を通じて、異性愛化されたジェンダーを形成する実践である——を暴き出し、アレゴリー化するということである。このように、ドラァグ異性愛的メランコリーをアレゴリー化する。(BTM322-333/PP187-188)

 このようなドラァグの評価はもちろんリスクがともなうと、バトラーは注釈を加えている。女性性を演じる「男性」、男性性を演じる「女性」には、それぞれ男性による女性性の形象への愛着、女性による男性性の形象への愛着が存在しており、そしてその形象の喪失が前提となっていると解釈することもできるからだ。しかし、ドラァグの形象の攪乱性にバトラーがこだわっているのは、それが身体表現でありながら意味的な規範性を問うものだからであろう。言語でありながら行為であり、行為でありながら言語であるということがパフォーマティヴの持つ意味であった。ドラァグアレゴリー性は、身体と意味の連続的な語りを切断させる力をもつ。より正確にいえば、異性愛的でストレートにみえる物語はその根源的な場において断裂していることを明るみに出す。
 アレゴリーは、身体の同一性によって支えられた〈私〉の首尾一貫した物語——分析の治療のある場面においてそれは強固に要求されるかもしれない*18——が、〈私〉の身体も含めた〈私〉以外のものによってさまざまに断片化されているということを示すだろう。バトラーは、「私が語る物語、ある種の必然性を持った物語は、その指示対象〔referent〕が十全に語りの形式を取るとは想定できない」と述べたあと、註でこう付け加えている。「語りはアレゴリーとして働き、最終的に連続的関係においては捉えられないものに対して、また、語りの形式を引き受けるときにのみ否定され、置換され、変形されうるような時間性、空間性を持つものに対して、連続的説明を与えようとする」(GA 68,75)。この文は一見、アレゴリーが連続的な一貫性を与えるというように読めるが、そうではない。アレゴリーは語りに連続的説明を「与えようと」しながら、常に失敗しなければならないのである。

 

3−3. 暴力とメランコリー

 これまで、メランコリーがセクシュアリティの次元においてどのようにはたらきうるのかを論じてきた。バトラーは二〇〇〇年代以降(「9・11」、同時多発テロ以降といってもいい)、メランコリーを国際的な政治問題に結びつけ、公的領域と私的領域、自国と他国といったより広い範囲での関係において思考の材料としている*19フロイトの「喪とメランコリー」でも述べられていたように、メランコリーに陥った者の自己呵責は、最終的に自殺に至ってしまうような暴力性をともなっている。一方でバトラーは、メランコリーの攻撃性を良心的な倫理として保存しておくということもまた重要性であると訴えている。

メランコリーに苛まれる人はみずからに痛烈な非難を向ける。それを抱えて生きることのできる良心と生きていられなくなる良心との違いは、前者においては、自己の殺害が部分的な、昇華された、不完全なものにとどまるところにある。それは自殺にも殺害にもなりそこねるのだ。つまり、逆説的なことに、不完全な良心のみが破壊的な暴力に対抗する可能性をもつのである*20。(FW210)

 ここで述べられている「不完全な良心」とは、外部の社会的規範に対して完全に同一化することなく、同一化の残余を留めておくということだ。この要求、メランコリーにおける良心=攻撃性を自殺に至らない程度に留めておくという要求は、たいへん難しいことに思える。しかし、他者への暴力の動機がみずからのうちにあるということを自覚することが、他者から自己への暴力に対抗しうる力を持つのだとバトラーはいう。自己に同一化されきらない残余、すなわち自己のなかに生き続ける他者の力は、私に倫理を要請する。内なる他者に屈せずに抗しながら、しかし良心として保存するということの倫理が求められているのである*21。「責任は、怒りに満ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ」(FW 212)。
 自死にむかうメランコリーの攻撃性がどのような場面で倫理として立ち現れるのか。バトラーは『アンティゴネーの主張*22』(2000年)においてアンティゴネーの姿形に注目することで、その分析をおこなっている。ソポクレースの古典劇『アンティゴネー』は、王オイディプスの亡き後、その王位を兄弟同士(エテオクレースとポリュネイケース)が争ったのちに、倒れた兄(ポリュネイケース)の埋葬をめぐって展開される悲劇である。兄弟のうち、エテオクレースの方は、「〈正義に則り〉、しきたりどおり土に隠して、冥土の死者たちにも受け入れられるように」埋葬されたのに対し、ポリュネイケースの方は、「嘆かれず葬られもせぬまま、血眼の鳥どものご馳走」になって、無惨な死を迎えた*23アンティゴネーは、妹の立場からポリュネイケースを公的に埋葬することを訴えるが、王クレオーン(オイディプスの叔父)はそれを許さない。テーバイの王位や公的な政治空間は男性が支配しており、アンティゴネーは王の親族でありながら女性であるために政治に参加することができないのだ。バトラーは、兄を公的に哀悼するためのアンティゴネーのクレオーンに対する要求が、公的領域への参入とその境界を攪乱する契機となったと解釈する*24。私的領域におしこめられているアンティゴネーの発話が、公的に哀悼される者とそうでない者との区別に疑義をつきつけるのである。しかしアンティゴネーはこの要求をした罰として、地下牢へと連れていかれ「生きながらの死」を迎えることになる。アンティゴネーの立場は、公的領域と私的領域のはざまにあり、また生と死のあいだにもあるのだ。
 アンティゴネーによる公的な喪の要求には、メランコリーの徴候がつきまとっている。メランコリーの特徴は、たとえ誰を失ったのかは判明していても、本質的に何を失ったのかは知られていないという点にあった。もちろんアンティゴネーは、自分が失ったのは兄ポリュネイケースだと認識している。しかしバトラーの解釈では、アンティゴネーの家族の構成からして「兄」という言葉が指しているものはオイディプスやエテオクレースの可能性があり、アンティゴネーの喪失は意識的に名状できるものではないのだ。メランコリーに陥ったアンティゴネーは、兄を哀悼する権利を主張する。それはその時の政治体制において哀悼されていない生が存在するということの確認であり、そしてメランコリーが彼女の発話に暴力性をあたえるのだ。

彼女のメランコリーは——もしそれをそう呼んでよければ——嘆く〔grieve〕ことのこの否定から成り立っているものだと思われ、その否定は、嘆く権利を彼女が主張するときに使う公的語彙によってなされるのである。その資格があるという彼女の主張は、彼女の発話のなかで機能しているメランコリーの徴候と言ってもよい。嘆くことを彼女が声高く公言することの前提には、嘆きえない領域がある。公的に嘆くことを主張することで、彼女は女のジェンダーから離れて、傲慢のなかに——番人やコロスやクレオーンをして、ここにいる男は誰なのかと思わせるような、明白な男らしさの過剰のなかに——入っていく。ここにいるのは男たちの亡霊〔spectralmen〕であり、アンティゴネーがそのなかに住まっている亡霊、また彼女がその場所を占め、そうすることで彼女自身がそれへと変わっていくような兄たちなのである。フロイトが言うように、メランコリーはその人の「訴え」を記録し、法的主張を向け、そのとき言語は悲嘆〔grievance〕の出来事となり、また言語は語りえぬものから湧き上がっているがゆえに、語りえるものの限界に語りえぬものをもたらす暴力を運んでくる。(AC155)

 アンティゴネーは、語りえないものの領域から、語りえるものの領域の限界に暴力を運び、その領域の境界を揺るがすような主張をするという。だが、ここでポジティブに語られている「暴力」は、兄の埋葬を禁じ、語りえないものの領域を作り出した国家による暴力とどのように区別することができるだろうか。
 竹村和子は、バトラーのアンティゴネー読解はやや楽観的だという批判を加えている。というのも、アンティゴネーの「自殺」では、メランコリーを生み出す秩序の外側に出ることができないからである。アンティゴネーは地下牢の中で「生きながらの死」に耐えることなく、自死を選んだ。そしてアンティゴネーの死は、許嫁ハイモーンとその母エルリュディケの死をももたらすことになり、そのメランコリーの連鎖をとめることができなかったのである*25アンティゴネーのメランコリーを抱えた主張は、一方で哀悼可能な領域と不可能な領域の構造を揺るがす政治的なものである。しかし他方で、メランコリーの暴力性は自らの死だけでなく他者の死をも引き起こし、ふたたび哀悼されない領域を作り出すことにもなってしまった。フロイトは、愛の対象を置き換えることができればメランコリーから喪へと移行することが可能だといった。しかしおそらく、メランコリーの攻撃性から自分と他者を守りつづけるということはそう簡単ではない。また喪失対象が不明であるために、その対象を捏造したうえでそれを奪われた被害者として、他者への攻撃を正当化することが可能になるあやうさもあるだろう。
 ただしバトラーは、このメランコリーと喪のあいだの移行という力動そのものに、政治的可能性をみている。メランコリーは喪の否認であるため、まずはメランコリーをそれとして認めなければならない。そしてなぜメランコリーに陥ってしまうのか、その喪失を正常な喪の作業として哀悼することを禁じている構造、公的に哀悼すべき人とそうでない人を作り出す構造に批判を向ける必要がある。

嘆く〔grieve〕こと、そして嘆きそのものを政治的力学の資源とすること、それはあきらめて活動しないということではなく、苦しみ悩むことにどうやって同一化するのかという、自分自身の立つ位置を時間をかけて探していくプロセスであると考えられないだろうか。嘆きがもたらす喪失の感覚、「私はどうなってしまったのか?」とか、まさに「いったい自分になにが残されているのか?」、「他者のなかにあって私が失ったものとは何なのだろう?」といった問いが「私」を、知りえない、という領域に位置づけるのだ。しかしこのことは同時に、かりにメランコリーという自己に埋没した心情を他者の被傷性〔vulnerability〕を慮ることへと移し変えることができたなら、新たな理解への出発点ともなりうる。そうなれば私たちは、特定の人の生が他の人の生よりも傷つきやすく、それゆえ哀悼される価値がある〔grievable〕とされる、そのような状況について考え、それに異議を申し立てることもできるようになるのだ。(PL65)

 メランコリーは自らのうちにある他者の力を〈私〉に自覚させ、自己は根本的に他者に依存しているということ、さらに自己と同じように他者もまた傷つきうるということを発見させる。そしてその傷つきやすさは政治権力により、あるジェンダー、人種、国籍などによって不均衡に異なっている。哀悼可能な人とそうでない人の区別を作り出す権力への異議申し立ての手段を、「集会」という手段にうったえたのが『アセンブリ』であり、そこでは、この手段は非暴力でなければならないということが強調されている*26。最新の著作も『非暴力の力』(2020年)というタイトルが付けられており、近年のバトラーにとって非暴力はキーワードとなる。バトラーはこう述べる。「非暴力を確実に定義することは、常に可能なわけではない。実際、非暴力のあらゆる定義は、非暴力とは何か、あるいは何であるべきかをめぐる解釈である」*27。みずからのうちにある暴力の自覚は、果たして非暴力への道を開くのか。暴力的なメランコリーの秩序から、どのようにして非暴力が現れるのか。その分析は今後の課題としたい。


参考文献表

 

*1:「『ジェンダー・トラブル』序文(一九九九)」、高橋愛訳、『現代思想』vol.28-14、66-83頁。そして興味深いことに、最終部では前半の精神分析の議論が置き去られ、パフォーマティヴィティによる規範のポジティブな反覆可能性を訴えることを、バトラーは自身が「メランコリーとしての喪失の否認=躁病」に陥っていたのではないかと述べている。

*2:以上のような、バトラーの「同一化」「自我」「主体」という概念の用い方に関する問題点については、精神分析家のジェシカ・ベンジャミンが『他者の影ジェンダーの戦争はなぜ終わらないのか』(北村婦美訳、みすず書房、2018年)の第三章において言及している。

*3:Butler, “Moral sadism and doubting oneʼs own love: Kleinian reflections on melancholia”, in Reading Melanie Klein, New York and London: Routledge Press, 1998, p.180

*4:ここではファンタスムを基本的に「幻想」と訳す。ただし後の節でアブラハム&トロークの用いるファンタスムは「亡霊」の意味合いも強く、場合によっては訳し分ける。

*5:しかしこの記述は、1927年にロンドンで出版された英訳の際につけられた註であり、ドイツ語のヴァージョンはない。

*6:バトラーによるラカンの参照の仕方は、年代や講演ごとの議論の変更を無視した雑駁なものだという批判もありえるだろう。バトラーのラカン読解がどれほど正当性のあるものかをここで検討することは筆者の手に余るが、このようなダイナミックな読解が引き起こすトラブルこそバトラーの特異さなのだといえよう。

*7:このような幻想的同一化を使いながら、トランスジェンダーの身体の引き受けについて論じているもの として、以下の特に第一章を参照のこと。ゲイル・サラモン『身体を引き受ける——トランスジェンダーと物質性のレトリック』、藤高和輝訳、以文社、2019 年。

*8:アブラハム&トローク『狼男の言語標本』、港道隆ほか訳、法政大学出版局、2006 年、17 頁

*9:狼男の生い立ちはかなり特殊なものだが、トラウマ的な体験を〈秘密〉として抱え込んでしまう、ということはある程度普遍的な出来事ともいえる。アブラハム&トロークの理論を用いながら、映画の登場人物を例にとってより日常的な〈秘密〉の現れ方について論じるものとして、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』(阿部又一郎訳、白水社文庫クセジュ、2018年)がある。

*10:アブラハム&トローク「喪あるいはメランコリー」『表皮と核』、大⻄雅一郎+山崎冬太監訳、松籟社、2014年、291頁

*11:Ibid.,292頁

*12:Ibid.,295頁

*13:濫喩的なフェミニズムの言語実践の一例として、モニク・ウィティッグの『レズビアンの躰』(中安ちか子訳、講談社、1980年)を挙げることができる。「わたしたちはまっすぐに降りてゆく。すねを、腿をぴたりとつけ、たがいの腕をからませ、わたしの手であなたの肩を抱き、あなたの手にわたしの肩を抱かれ、胸を胸とをあわせ、たがいのひらいた口を重ね、ゆっくりと下降してゆく。〔...〕大きな手でわたしの背をおさえ、わたしをおちつかせ、あなたの陰門をわたしの陰門におしつける。わたしは、瞼がぴくぴくとうごきはじめ、頭ががんがんし、腹郭にも腹部にもクリトリスにも鼓動が鳴りわたり、あなたはますます早口で語りかけわたしを抱きしめ、わたしもあなたを抱きしめ、二人は渾身の力をこめて抱きあう。〔...〕わたしの中身があなたの体内にぶちまけられ、あなたの中身とわたしの中身がまじりあう、わたしの口をあなたの口に重ねあわせたまま、わたしの腕をあなたの首にまきつけたままで」(43-44頁)。また日本では、性器結合主義的な人間どうしの関係とは異なるセクシュアリティのかたちを描き、物語の固定性と闘ってきた作家として松浦理英子がいる。

*14:Cf.竹村和子・冨山一郎「バトラーがつなぐもの」『現代思想』vol.28-14、2000年12月、⻘土社、44-65頁

*15:リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』、棚沢直子ほか訳、勁草書房、1987年、140頁

*16:ジェーン・ギャロップは、イリガライの「換喩的な読み」を評価し、それによってファルス中心主義的な解釈の伝統を超えようとしたが、「自分の換喩的な読みに導かれて潜在的なファルスという概念にたどりつき、換喩的な解釈もまた、それなりに、ファルス中心主義になってしまいうるということが分るようになった」と述べている。ギャロップの理論はバトラーと共通している部分も多い。Cf.ギャロップラカンを読む』、富山太佳夫・椎名美智・三好みゆき訳、岩波書店、2000年、178頁。

*17:ところで、メランコリーとアレゴリーといえば、ヴァルター・ベンヤミンバロック劇についての著書『ドイツ悲劇の根源』を想起させずにはいられない。バトラーは『権力の心的な生』において、「ヴァルター・ベンヤミンは、メランコリーは空間化するものであり、時間を反転させるもしくは宙づりにするメランコリーの作用力は、その署名効果として「風景」を生み出す、と述べている」(PP 222)とわずかに言及している。しかし、バロック劇(Trauerspiel)のアレゴリー性が、歴史の中で構築されてきた象徴的なもの、完全なものとみなされた自然を断片化するという論旨など、バトラーの主張と共通する部分もある。「感性的な美しい自然(Physis〔肉体〕)に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めることは、古典主義にはその本質からして当然拒まれていた。だが、まさにそうした点こそを、バロックアレゴリーは、その途方もない華美にくるんで隠しながら、以前には予感されなかったほどに強調しつつ呈示するのである」(『ドイツ悲劇の根源』下巻、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、1999年、48頁)。バトラーは論文集『喪失——喪の政治』(2003年)の後書きにおいて、喪を衣服に喩える表現に注目してベンヤミン読解をおこなっている。ここでドラァグへの言及はないが、アレゴリー化する行為は人間の身体と衣服=人工物の関係になぞらえられており、ドラァグの形象と並べてみることもできるだろう。

*18:Cf.バトラー『自分自身を説明すること——倫理的暴力の批判』、佐藤嘉幸+清水知子訳、月曜社、2005年、96頁。以下GAと略記。

*19:このようなバトラーの「倫理論的転回」について(やや批判的に)討議しているのが、竹村和子村山敏勝新田啓子「攪乱的なものの倫理」(『現代思想』vol.34-12、2006年10月、⻘土社、38-63頁)である。

*20:バトラー『戦争の枠組み』、清水晶子訳、筑摩書房、2010年、210頁。以下FWと略記。

*21:ジャック・デリダもまた、他者を他者として担うという倫理のうちにメランコリーの必要性を訴えていた。やや⻑いが『雄羊』のある箇所を引用しよう。「フロイトによれば、喪は、自己の内に他者を担うことにある。もはや世界はない。それは、他者の死における他者のための世界の終わりであり、私は、この世界の終わりを私の内に迎え入れる。私は、他者と彼の世界を、私の内にある世界を担わなければならない。つまり取り込み(introjection)、記憶(Erinnerung)の内化(intériorisation)、理想化である。メランコリーが、この喪の失敗と病理学に応じることになるだろう。しかし私が、他者に忠実であるために、他者の単独=特異な他性(altérité)を尊重するために、私の内に他者を担わなければならない(それは倫理そのものだ)としても、それでもなおある種のメランコリーは、正常な喪に抗議するにちがいない。このメランコリーが、理想化的な取り込みを甘受するはずがない。フロイトが、まるで正常さの規範を確証するためでもあるかのように、もの静かな確信を持って述べていることに対して、メランコリーは激怒するにちがいない。「規範」とは、健忘症の良心にほかならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること、それはすでに他者を忘れることだということを忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ。この場所で、ある種の病理学の苦しみが、法=掟(loi)を口述=命令(dicter)する——そして詩が他者にささげられる——である」(強調原文)。ジャック・デリダ『雄羊』、林好雄訳、ちくま学芸文庫、2006年、80-81頁

*22:バトラー『アンティゴネーの主張問い直される親族関係』、竹村和子訳、⻘土社、2002年。以下ACと略記。

*23:ソポクレースアンティゴネー』、中務哲郎訳、岩波文庫、2014年、20-21頁

*24:スラヴォイ・ジジェクもまた「メランコリーと行為」という論文の中で、アンティゴネーの不服従の行為に注目している。いわく、「アンティゴネーによる市⺠的不服従の身振りは、これよりも根源的にパフォーマティヴである。アンティゴネーは、兄をきちんと埋葬すべきだという強固な要求を通して、善に関する支配的な概念に公然と反抗しているのだから」。ただしジジェクはこの論文中で、メランコリーを再評価する思想にみられる「客観的シニシズム」を批判しなければならないとしており、ラカプラと同様に欠如と喪失の区別をするべきだという指摘をしている。Cf.スラヴォイ・ジジェク「メランコリーと行為」、鈴木英明訳、『批評空間』第III期vol.1、2001年、115-138頁

*25:竹村和子「暴力のその後.....——「亡霊」「自爆」「悲嘆」のサイクルを穿て」『境界を攪乱する』、岩波書店、2013年、289-334頁

*26:バトラー『アセンブリ行為遂行性・複数性・政治』、佐藤嘉幸+清水知子訳、⻘土社、2018年、241-248頁

*27:Ibid.,243頁

ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学③

前回まで 

はじめに

第一章

 

第二章 バトラーのフロイト批判

2−1 法の遡及的効果としての「気質」

 

 『ジェンダー・トラブル』*1の第二章第三節、「フロイトおよびジェンダーのメランコリー」において、バトラーはフロイトのメランコリー論を検討する。フェミニズム的観点から精神分析を批判する場合、おおくはエディプスコンプレクスが男女非対称的であることや、能動性が男性に、受動性が女性に割り振られていること、また母という位置の理解が家父⻑制的価値観に基づいていることなどに焦点があたる*2。しかしバトラーは、そのような応答は確かに重要だと認める一方で、「ジェンダーを男性的なものと女性的なものに切りわける、二元的で異性愛的な枠組みを増強する傾向をもち、そういった枠組みは、ゲイ・レズビアン文化の特徴である攪乱的でパロディ的な集中についての適切な記述を、あらかじめ封じてしまうものである」(GT128)とする。すなわち、精神分析の言説を男根中心主義的な単一の敵とみなし、そこで貶められている女性性を評価しようすると、フェミニズムは、男女二元論的な構造を保存したままに、むしろそれを強化することになってしまう。バトラーの精神分析への批判を貫いているのは、精神分析理論を成り立たせる枠組み、物語の一貫性そのものを問い直す視座であり、いわば精神分析を利用しながらその内部で精神分析を攪乱する戦略である。
 フロイトにおける同一化の議論は、ある意味構築主義的といえる。すなわち、男性性/女性性は、両親との関わりのなかで獲得されるものであり、生得的なものではないということだ。しかし、フロイトの記述には拭いがたい異性愛規範へのこだわり、解剖学的性差への準拠が見てとれる。バトラーがそのなかでまず批判をむけるのは、「気質 disposition」の議論であり、実際フロイトが言い淀んでいるようにみえる箇所である。

結局、エディプス状況が父−同一化で終わるか、母−同一化で終わるかは、男女どちらにおいても、男性性と女性性のどちらの気質が相対的に強いかにかかっているようである。(十八/29、素質を気質に変更している)

   バトラーが批判しているのは、父への同一化か母への同一化を決めるのは、その同一化する自己が元々持っている男性らしさ/女性らしさの気質の相対的な強さによるという論理である。これは実際、かなり奇妙な論理の転倒だ。フロイトは同一化という概念によって、後天的に得られる性という意味でのジェンダーの考えを取り入れようとしているようにみえる。しかし気質は対象備給に先立つとされており、結局はその個人がもつ性質のなにかが、父/母への同一化を最終的に決定づけるようである。父(男性的なもの)あるいは母(女性的なもの)へと同一化をする以前に存在する男性的/女性的な「気質」とはいかなるものか。バトラーは、フロイトは女性気質=男性を愛する気質、男性気質=女性を愛する気質としているためにこの奇妙な転倒が起こるのではないかと指摘する*3(GT119)。たしかに、男児のエディプスコンプレクスにおいて父に同一化することとはつまり、その後に女性を愛の対象とするということであり、母に同一化することは「女児のように」振る舞い、父親に対して「情愛的な女性的態度」を示すということである(十八/29)。そして、対象選択以前に存在するとされる「気質」は、そのどちらかの同一化を決定する因子として定義される。
 すなわち、エディプスの図式においては、性差は愛の対象によって決定されるという性自認性的指向の混同が生じているうえ、その愛の対象は同性愛的な欲望が禁じられていることによって予め排除され、選別されている。ただし、フロイトの理論のなかで同性愛の存在が認められている点は指摘しておきたい。たとえば「女性同性愛の一事例の心的成因について」においてフロイトは、性自認性的指向を区別するように記述しており、「男性的性質の方が優り、性愛生活でも男性的な類型を示す男性が、にもかかわらず対象の点では倒錯していて、女性ではなく男性しか愛さないということがありうる」と述べている(十七/269)。しかし、父母という異性愛達成者のもとでおこるエディプスコンプレクスにおいて、父に同一化しながら男性を愛すること、母に同一化しながら女性を愛することは想定されていない。くわえて、フロイトが「両性性」という言葉で示しているのは、男性として女性を、女性として男性を愛するという二つの異性愛的傾向を一個人の内にもつということだ。
 精神分析は、「対象選択に際してその決定につながった心的機制を明らかにし、その機制から欲動の素地への道をたどってゆく」(十七/270)ことを目的とする。しかし、対象選択に先立ち、その選択の原因かのように措定される気質は、実は同性愛の禁止という暗黙の法のもとに、異性愛達成の結果としてあくまでも事後的に仮定されるものである。バトラーの言葉を借りれば、「男性気質や女性気質は、精神の一時的な性的事実ではなくて、自我の理想像が共謀しておこなう価値転換行為によって、また文化によって、押しつけられる法が生み出す結果にすぎない」(GT123-124)。そして、生得的であるかのような気質と心的事実を根拠にしながら、欲望を禁止する法(近親姦タブーと同性愛タブー)によってその気質を強化させるという物語は、気質の自然性、基盤性を問う可能性そのものを排除している。気質は、それ自身の成立過程を隠蔽することを目的とした物語の遡及的効果である。すなわち、「〈気質〉とは、言葉に出されず、また禁止によって語りえないものにされている強制された性の禁止の歴史の痕跡」(GT124)なのである。

 

2−2 同性愛の予めの排除

 ここであらためて、エディプスの物語を検討しよう。男児は敵対者である父へと同一化することによって、母を愛しながら父を憎み、また恐れるというコンプレクスを解消するのであった。しかし、仮にこのプロセスで失った対象を自己に内在化させるメランコリー的同一化が生じるとすれば、近親姦的欲望の禁止によって失った母が内面化されるはずである。この齟齬をどう理解すればよいのか。バトラーは、それを暗黙に同性愛的欲望が禁じられていることの帰結とみなす。すなわちバトラーの考えでは、男児が父へと同一化するのは、父が敵対者だからではなく、同性愛が禁じられているせいで失わなければならなかった愛の対象だからである。

同一化は、自己と対象との関係を代償したものであり、また対象喪失の結果でもあるために、ジェンダーの同一化は、禁じられる対象のセックスを、禁止として内面化する一種のメランコリーとなる。この禁止が、明確に区分されたジェンダーアイデンティティ異性愛欲望という法を認可し、規定していく。だからエディプスコンプレクスの解決は、ジェンダーの同一化にたいして影響を及ぼすものだが、それがおこなわれるのは、近親姦タブーを通してだけでなく、それに先立つ同性愛タブーを通してでもある。その結果、ひとは同性の愛の対象に同一化することになり、それによって、同性愛のリビドー備給の目標と対象の両方を、内面化してしまう。(GT122-123)


 この読解を受け入れれば、喪失対象を引き入れるメランコリー的同一化と、男児の父への同一化を齟齬なく説明することができる。バトラーによれば、フロイト男児のエディプスコンプレクスを終結させる契機とみなしている去勢不安は、父による罰としての去勢を恐れるのではなく、父を同性的に愛した結果、みずからが「女性化」されてしまうのを恐れるために生じる。男児は父を愛することを禁じられているがゆえに喪失しなければならず、その喪失のメランコリー的同一化によって父のジェンダーを身に帯びるのだ。
 つまり、同性愛的欲望を断念することは、むしろエディプスの異性愛的な達成を条件づけるものとなる。フロイトは「両性性」に言及しながらも、その理論の主眼がやがては異性へとリビドーを向かわせるエディプスの図式へと収斂するのは、この図式において同性愛の可能性が予め排除(foreclosure)されているためなのだ。このようにバトラーは、同性愛が暗黙にタブー視されるような構造を批判しているのである。

エディプス的葛藤は、異性愛的欲望が既に達成され、異性愛と同性愛の区別が実行されていること(この区別には結局のところ何の必然性もない)を前提としている。この意味において、近親姦の禁止は同性愛の禁止を前提としているのである。というのも、それは欲望の異性愛化を前提としているからだ(PP175)。

 しかし、「同性愛タブーは近親姦タブーに先立つ」という繰り返し提起されるバトラーの主張は、同性愛を具体的な喪失としてではなく、構造上生じてしまう根源的な不在として位置づけてしまうかのような印象を与えることもまた確かである。『ジェンダー・トラブル』では、「すべてのジェンダーの同一化が、同性愛タブーをうまく実行したことに基づいているわけではない」(GT123)としているにもかかわらず、『権力の心的な生』では、主体は「主体化の諸限界を徴しづける同化不可能な残余、メランコリーに取り憑かれている」(PP41)と書かれており、メランコリーのメカニズムは一般的な主体形成にかかわるものだとみなされている。
たとえばドミニク・ラカプラは、バトラーがメランコリーの構造を一般化することに批判的である*4。ラカプラは、不在と喪失の区別を主張し、もし喪失を不在と取り違えてしまった場合、それは「終わりなきメランコリー、不可能な喪、過去と歴史的な喪失を徹底操作*5〔workingthrough〕するどのような道も閉ざされるか、流産するしかない、永劫のアポリア*6」になるという。つまり、同性愛の禁止のメランコリーによって主体化を条件づける以上、同性愛が永遠の不在として位置づけられてしまい、その喪失は原理的に取り返しのつかないものとなってしまう。しかしバトラーはあくまでも、(フロイトの理論のように)異性愛規範が前提とされるとき、そこで予め排除されている同性愛の可能性について述べているのであって、この排除を不可避で不変の事態とみなしているわけではない。『ジェンダーをほどく』(2004年)でバトラーは、ふたたびメランコリーの限定性を主張している。

異性愛的メランコリー、すなわち、異性愛の中にジェンダー規範の強化として現れる同性愛的な愛着の拒否(「私は女だから、女を欲しない」)を明らかにするべく、私は、ある種の愛の形に対する禁止が、主体の存在論的な真実としてどのように据えられている〔installed〕かを示そうとしている。「私は男である」という「私」が「私は男を愛してはならない」という禁止を内包することで、その存在論的主張が禁止そのものの力を持つようになるのである。しかし、これはメランコリーの条件下でのみ起こることであり、すべての異性愛がこのように構造化されているわけではない。また、一部の異性愛者が同性愛の問題に対して、無意識のうちに否認するのではなく、単純な「無関心」でいることができないということでもない。(この点については、イヴ・コゾフスキー・セジウィックから引用している)。また、私は何よりもまず同性愛者の愛があり、その愛が抑圧され、その結果として異性愛者が現れるという発達モデルを支持していると言いたいわけでもない。しかし、このような説明がフロイト自身の仮定から導かれるように思えるのは興味深いことだ*7

 このように、バトラーはフロイトのテクストから導き出される同性愛の構造的排除を指摘しているが、より一般的にまず同性愛があって、それが抑圧されてはじめて異性愛的主体が生み出されるという主張をしているわけではない。異性愛者にとって同性愛の対象はもう取り戻すことのできない不在としてあるのではないが、一方で実際にどのような主体がメランコリーの条件のもとにあるのかという具体的な記述はできない。メランコリーの条件を理論づけてしまうと、必ずその条件から排除された領域がふたたび生み出されてしまうからである。異性愛者が自身の同性愛の可能性を否認しているとき、身体に帯びたジェンダー規範をより強固にしていくというメカニズムがメランコリーなのだ。異性愛が強固に前提とされる言説や主体の場において、そこにはいつの間にか失われてしまっていた別の愛の可能性があるかもしれない*8

 

2−3 パフォーマティヴなジェンダー

 父あるいは母との同一化が、異性愛規範のもとで可能になり、またその同一化の原因として措定されている気質あるいは一次的同一化が、それ以上遡及不可能な本質ないし「自然」として基盤化されるということ。すなわち構築的なジェンダーの根拠に自然的なセックスがあるために、ジェンダーの規範性を覆すことができなくなってしまうという難問。それに対処するべくバトラーが用いたのが、「パフォーマティヴィティ(行為遂行性)」である。バトラーにおけるパフォーマティヴィティの概念は多義的で、年代と著作によってもその扱いが変化している。ここでは、特にパフォーマティヴィティが、引用のもつ反復=反覆可能性によって規範を攪乱する契機となりうること、主意主義的でない主体概念を提示しようとしていることの二点を確認する。
 パフォーマティヴィティは、アメリカのアカデミズムにおいて二重の歴史をもつ。すなわち、J・L・オースティンの言語行為論、ならびにそれを批判的に引き継いで理論化したジャック・デリダ脱構築派の流れと、「パフォーマンス・スタディーズ」というあらゆる行為をパフォーマンス(=演技)として捉え直す研究の流れである。バトラーの『ジェンダー・トラブル』はこれら二つの流れの結節点となっていることが指摘されている*9。まずは、オースティンの言語行為論について概観しよう。パフォーマティヴとは、コンスタティヴと区別して提示された言語の用法である。コンスタティヴ(事実確認的)は、先に事象があり、それを確認するように言葉を用いることである。例えば、「今は二時だ」「私は学生だ」などだ。それに対して、パフォーマティヴ(行為遂行的)は、言語を発すると同時に行為となるようなものである。例えば、「私は結婚する」「私はあなたを〇〇と名付ける」などだ。パフォーマティヴな発話は、真偽ではなく、その行為と発話が適切かどうかという観点で捉えなければならない*10。たとえば同性同士の婚姻が法的に認められていない現代の日本において、女性の同性愛者が「私はある女性と結婚する」と言っても、その行為は法的には成立できないことになる。また、「結婚する」という言葉が指し示すものは、日本においてはたいてい婚姻届を届けたり、戶籍を移したり、あるいは結婚式をあげたりするという行為であり、これは繰り返しなされてきた慣習の力によっている。戶籍のない国や、同性婚が認められている国では「結婚する」という言葉の行為内容が変わってくることだろう。このように行為遂行的な発話は、その発話がなされた状況や文脈によって、適切か不適切かが判断される。
 バトラーは、ジェンダーアイデンティティがパフォーマティヴだという。それはつまり、ジェンダーは身体的性差=セックスという事実に基づいてコンスタティヴに記述されるのではなく、その都度ごとの身ぶり、行為、発話に応じて構築されるのだということだ。

行為や身ぶりや演技〔enactments〕は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている仮構物〔fabrications〕にすぎないという意味で、パフォーマティヴなものである。(GT240)

 ここでバトラーは狭義の言語論の範疇を超えて、身体的な動きをある種の記号、言説として捉えている*11。男/女というアイデンティティは、解剖学的性差の表出ではない。男らしい/女らしい身ぶりは、社会的な文脈の中で記号として保持されてきたものにすぎないのだ。そしてジェンダーは、そのように繰り返し反復される身ぶりや言語行為のなかで構築されてきたものであり、それだからこそ、いままでの慣習に従わない反復というものがありうる。ジェンダーを理解する既存の社会的枠組みにとっては不適切な発話行為の可能性があるということが、ジェンダーのパフォーマティヴ性を考える意義の一つである。

ジェンダー化された永続的な自己とは、アイデンティティの実体的な基盤の理想に近づくように、反復行為によって構造化されたものであることが判明する。他方でその反復行為は、ときおり起こる不整合のために、この「基盤」が暫定的で偶発的は〈基盤ナシ〉であることも明らかにするのである。ジェンダー変容の可能性が見いだされるのは、まさにこのような行為のあいだの任意の関係のなかであり、反復が失敗する可能性の中であり、奇−形のなかであり、永続的なアイデンティティという幻想的な効果〔phantasmatic effect〕がじつはひそかになされる政治的構築にすぎないことをあばくパロディ的な反復のなかなのである。(GT247-248)

    基盤ないし根源的な本質とみなされるアイデンティティは、言語行為が反復されることによって政治的・社会的に構築されてきたものである。それゆえに現行の慣習と異なる仕方での反復、パロディ的な反復の可能性がある。反復(repetition)的な引用行為は、必然的に慣習に差異をもたらす反覆(reiteration)なのだ。パフォーマティヴの反復=反覆可能性についてはデリダが論じていたことであるが、バトラーはデリダに逐一言及せずともこうした脱構築的な戦略をとっている*12。しかし、この攪乱的な反復は主体の意図によって自由に行使できるものではない。たしかに『ジェンダー・トラブル』では、このパフォーマティヴィティの例を、ドラァグのような衣装やメイクを派手に、過剰にするパフォーマンスのこととしているために、意志をもった主体がその意志のままに自由に選択できる行為だと解釈された。だが、言語や習慣がある程度の時間をかけた拘束性を持つ以上、このような反復はむしろ強制された不自由なものであるといえる。そしてバトラーが強調するのが、行為のまえに意図をもった主体が存在するのではないということだ。

アイデンティティの政治の基盤主義的な考え方からすれば、政治的利権を練り上げ、次に政治行動を起こすためには、まずアイデンティティが適切な場所にいなければならない。しかし「行為の背後に行為する人」が存在する必要はなく、「行為する人」は行為のなかで、行為をつうじて、さまざまに構築されるのだとわたしは主張したい。(GT250)

 フェミニズムが、女という一枚岩のアイデンティティに基づいてその立場から男女平等ないし女性解放を目指す運動であるならば、逆に女というカテゴリーが本質化され、現在の性の制度が再生産されてしまうことになる。そのように行為の背後にある意図をもった行為者(agent)と区別される主体概念として、バトラーは「エイジェンシー」という概念を持ち出す。エイジェンシーとは、行為をつうじて構築されるオルタナティヴな主体のあり方である。エイジェンシーの日本語訳は現在では、「行為能力」でほとんど統一されている*13。 しかし、最初の訳者である竹村和子は「行為体」としており、これが「既存の権力体制の内部にありながら、引用がはらむ置換に「何かをおこないつつ生産していく」能動性を秘めたものとして」あること、また「主体に代わる概念という意味合いも込め*14」て、この語を選択したと語っている。文化や言説の制約をうけながら、しかしそれに完全には従属することのない、ある抵抗の地点、それがエイジェンシーである(GT251)。

 

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*1:バトラー『ジェンダー・トラブルフェミニズムアイデンティティの攪乱』、新装版、竹村和子訳、⻘土社、2018年。以下GTと略記。

*2:精神分析に対するフェミニズムの側からの反応については、北村婦美「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」(⻄見奈子編『精神分析にとって女とは何か』、福村出版、2020年、1-60頁)にまとめられている。

*3:このとき抹消されるアセクシュアルの存在について、松浦優が「メランコリー的ジェンダーと強制的性愛——セクシュアルの「抹消」に関する理論的考察」『GenderandSexuality』(15)、国際基督教大学ジェンダー研究センター、2020年、115-137頁において論じている。

*4:同様の批判を、ラカプラを翻訳した村山敏勝も行っている。Cf.村山敏勝「主体化されない残余≠去勢」『現代思想』vol.28-14、2000年12月、⻘土社、195頁。「根源的なメランコリーによって主体が生まれるとされるとき、「規範化されない残余」といった口調ともあいまって、失われた対象は根源的な不在のようにも聞こえる。しかし、じつはそこにあるのは同性愛という具体的な喪失である。ところが再度、この喪失は現実に起こったものではなく、異性愛社会の規範によって起こる前から失われているのだから、取り戻すことのできない根源的なものである。もちろん同性愛を取り戻したからといって主体の十全性が実現するわけではないから、バトラーがユートピア的に同性愛を不在の象徴と化しているという批判はあたらない。しかしあれほど記号の再流通にこだわるバトラーは、ここではきわめて論理的な構図を作り出すことによって、異性愛/同性愛の二項対立を非歴史的に固定しているような印象すら与えてしまうのだ。くりかえせば、『権力の心的生』における「主体化されない残余」は、ラカンの公式とはまったく異なって、具体的な内容をもった空間である。心的空間のなかに、社会権力を超自我というかたちで組みこみ、同時に棄却された対象も循環のなかに組みこむことがここでの企てである。システムのなかにありながら排除された場」。

*5:徹底操作とは、精神分析の過程において、解釈に統一を与え、解釈がひきおこす抵抗を克服する作業のこと。Cf.ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』、村上仁監訳、みすず書房、1977年、330頁

*6:ドミニク・ラカプラ「トラウマ、不在、喪失」(上)、村山敏勝訳、『みすず』、2000年5月、みすず書房、16頁

*7:Butler, Undoing Gender, New York and London: Routledge Press, 2004, pp.119-120

*8:ここで筆者はバトラーに従うことで異性愛と同性愛という二項対立を強固にしていることを認めなければならない。異性愛規範に抗うセクシュアリティのあり方は、非性器的なものも含めてより多様なはずであり、なにも同性愛に限定する必要はない。また反対に、母と娘の関係は「唯一性器的なセクシュアリティの可能性を、どのような意味においても根源的に許されなかった家族、そして非−性器的なセクシュアリティを称揚された家族」であり、娘のメランコリーは複雑で根深いものだと書いているのが、竹村和子である。竹村は、論考「あなたを忘れない」(『愛について』、岩波書店、2002年、138-206頁)において、メランコリーの概念を用いながら「母」「娘」「女」というカテゴリーの規範性と可変性について論じ、本来「全階調」であるはずの愛が性器のみによって価値づけられてしまうことのメランコリーを描き出している。

*9:藤高和輝は『ジュディス・バトラー生と哲学を賭けた闘い』(以文社、2019年)の特に第六、七章において、バトラーにおけるパフォーマティヴィティ概念の形成と変遷についてまとめており、この点を指摘している。

*10:オースティンは、『言語と行為』(飯野勝己訳、講談社学術文庫、2019年)において、行為遂行的な発話が「適切」になるような条件を六つあげている(35頁)。しかし後には「遂行体は確認体とまったく明白に区別される——前者は適切または不適切になり、後者は真または偽になるという仕方で——わけではない」(109頁)と述べ、遂行体と確認体の区別はそう単純ではないこともまた示唆している。

*11:バトラーは、『ジェンダー・トラブル』の中ではオースティンに言及することなくパフォーマティヴという単語を用いている。

*12:デリダの反復=反覆にバトラーが直接言及しているのは、たとえば『問題=物質となる身体』(佐藤嘉幸監訳、以文社、2021年)の310頁などである。145頁でも同様の論点があげられるが、ここでは訳者がデリダの参照を注釈している。

*13:バトラー自身がフランス語の定訳capacité dʼagir, puissance dʼagirを承認しており、「力」の意味が強くでる行為能力が採用されている。また、フロイトの「批判的審級 kritische Instanz」の英訳は、critical agencyである。(PP43,251)

*14:以下の「訳者あとがき」より。サラ・サリー『ジュディス・バトラー』、竹村和子ほか訳、⻘土社、2005年、307頁。

2022-11-27(名前/受容/愛の病)

イーロン・マスクTwitterを買収してからにわかにTwitter終了の気配が人々の間に共有されてきているが、果たしてどうなるだろう。高校生になったタイミングでスマホを持って、ツイッターもインスタもそのときからやってたけどツイッターが特別なのはかやのという一人の人格をつくったことにあった。高校のときは花夜乃という漢字をあてて、主に惚気話をして、同じような話をする年上のお姉さんばかりフォローしていた。手紙交換をした人もいてそのやり取り自体はすぐ途絶えてしまったけど、本名が同じで縁を感じたりもした。大学生になってから茅野をつくった。今これを読んでくれてる人は大半が茅野として私を見ていて、茅野として私を認識している人に実際に会ったり付き合いさえした。ツイッターだけでなくさまざまなSNSを茅野の名でやっているし、もう茅野でない私の部分はほとんどないと思っている。真っ黒のすこしフリルのついた服を好んで着るようになってからは、見た目のイメージと中身も統合されてきた気がして、しかしそれはわりと心地が良い。見た目と中身、外見と性格の分離や統合をVtuber(や2Dモデルを使う配信者)を見るようになってからよく考えるようになった。つまるところ自己イメージをコントロールしたいということなのかもしれない。

 

人生、こんなのでいいんだろうかという漠とした不満だけが日々うっすらつもる。労働環境については現段階でこれ以上は望めないくらい良いのだと理解している。すくなくとも残業はほとんどなく有給も自由にとれてパワハラもセクハラもない。内容には興味がないが、それは最初からわかっていたことで、好きなことを仕事にしたらだめなタイプだと思っている。

時間の割合的に仕事のことを原因にしてしまっているけれどたぶんちがって、受容者でしかないことに倦んでいるのだと思う。ヴァントゥイユの音楽を聴いて、ただ自分の恋愛に結びつけてうっとりしたスワンではなく、創作へと力を向けた語り手に、私はなるべき(すくなくとも目指すべき)なのだと半ば傲慢にしかしどこか信じている。怠惰な習慣と消費に流されずに。文フリに行ったのは二回目で、単純に人が多い密室空間で疲れるということもあるが、それ以上にここにいる人の大半が創作者であることに怖気付く。読んだから書く、という後藤明生(と金井美恵子)の態度は簡潔でいてそのシステムを習得するのは難しい。

 

自分の話ばかりしていてつまらない。

 

最近読んだ(でいる)本。
・『ミシェル・アンリ読本』。たしか鈴木泉の論文を漁っていた時にアンリの名前を知って興味を持ったような気がする。デリダとは異なった形で西洋ロゴス主義を批判していて、図式化すると大体こんな感じ。

生(のロゴス)・内在  //   光 /  闇、既知/未知、カテゴリー、一般性(要するに伝統的な西洋哲学の枠組み)

デリダだったら、右側(光/闇、既知/未知の区分け)を脱構築という感じだが、アンリはそれらをひとまとめの論理とし、それとは全く別の次元に存在する「(内在的)生」を対立させ、別の二元論を導入するという感じだろうか。アンリには『精神分析の系譜』という本もあるらしいが、これはフロイト批判ニーチェ賛美みたいな感じらしく、どのようにフロイトを批判しているのかは気になるところ。私はフロイトをいかに批判するかということに書き手の評価の基準を置いているところがある。(もちろん、家父長制的だからダメとかいうだけの人は単純でつまらないなあという評価が下される)。

 

ドゥルーズにも似たような論理がある。

死の本能 //   生の欲動 / 死の欲動
無底の暗闇 // 光 / 闇

このような論理形式をたてると、闇や死の欲動や神の発生の問題が問われる。このあたりは堀千晶『ドゥルーズ 思考の生態学』や十川幸司『フロイディアン・ステップ』に書いてある。『思考の生態学』はここ数年待ち望んでいた本だったので出版が嬉しいというだけで今年ベスト本に入れてしまえるのだが、内容にもすこし触れておきたい。ライプニッツの読解は以前からかれの論文や講義でその精緻さと大胆さと美しさを魅力に感じていた。ライプニッツの可能世界論の拡大は今の世界が必然ではなく(ライプニッツだと神によって必然となるのだが)虚構世界の実在性を信じることでもあり(cf 2021-05-08(受け身/塔/多世界) - よくわからない比喩)、ドゥルーズ(と堀千晶)が小説や作品を重要視しているということと通じている。たとえば次のような一節がある。

 たとえば、ある村の子供が暗闇のなか足を水にひたして歩いてゆく際に、風が右の頬だけを撫ぜるのか、それとも左の頬だけか、あるいは両方の頬に同時にふれるのか、どういった感触を呼び醒ますのか。これらが、いずれも可能だとして、しかしあるひとつの風が、同じ日付の同じ時刻、同じ空間において、これらの動作を一気に行うことができないとするなら、このわずかなちがいが世界同士の全面的なちがいと結びつく。賭けられている争点は、ある時点における風の撫ぜ方のちがいをめぐる主観的な認識の問題ではなく、実在的な世界全体が丸ごと別のものになるか否かである。あるひとつの風の吹き方、水音の立ち方、光の揺れのうちに、子供の運命ばかりでなく、世界がもはや同じ世界ではいられなくなることが折り畳まれている。あるいは、ともに揺れ動く葉や枝や塵の動きの具合、方向、速度、その影や音の向きや長さ、暗闇の深さの度合、森に漂う香り。細部のなかには無限が埋まっている。充足理由律において「分析は無限に進行する」のであり、それゆえ水のなかで差し出される一歩一歩、水紋の広がりかた、その小さな音の一つひとつが、運命の分かれ道である。左足を一歩静かに下ろしたことの背後で、すでに潜在的に無限個に世界が分岐していたのである。神の計算によっても、神の意志によっても、神の力能によっても、出来事の偶然性が消滅することはない。(84頁)

ひとつひとつの描写があらゆる世界の可能性と偶然性を示すことに眩暈がする。

ドゥルーズが参照する哲学者はたくさんいるけれど、日本の研究としてはライプニッツスピノザニーチェベルクソンあたりがメジャーどころな気がしている。しかし前述の図式のような発生の問題は、シェリングの導入によって得られるらしい。シェリングについてほとんど全く知らなかったので純粋に勉強になったし、第五章「愛の病——神の発生と崩壊」はタイトルからしてスリリングで面白いところだと思う。スピノザ的なシェリング(=思考と存在の合一=愛)とスピノザ的でないシェリング(=思考と存在の根源的な分裂=病)がいる。

卒論を書いてから約一年たってしまったのだが、バトラーにはほとんど興味を感じなくなってしまっているものの、メランコリー(愛の病)というテーマは一生興味があるだろうという気がしている。愛や性欲について拗らせているからこそ精神分析を無視できないし、欲望の問題を扱わないなら私にとってフェミニズムは嘘になる。

 

 

ジュディス・バトラーにおけるジェンダー・メランコリーの系譜学②

はじめに

第一章 フロイトのメランコリー論

 

1ー1. 喪とメランコリー

 

 バトラーがメランコリーに注目するのは、他者を自我のうちに内在化させるというメランコリー的同一化(identification)のメカニズムが、ジェンダーアイデンティティの形成に関係するからである。「メランコリー的同一化は自我がジェンダー化された性格を引き受ける過程の中心をなしている」(PP172)。あるジェンダーを引き受け、身に帯びることを同一化として捉え、さらにその同一化がどのような規範によって引き起こされ、制限されているのかを問うことが課題となる。まずは、フロイトがどのようにメランコリー論を展開させたのかをみておこう。
 フロイトは論文「喪とメランコリー」(1917年)において、愛する対象の喪失への反応として、喪とメランコリーを対比的に提示した。喪は「愛する人物の喪失、あるいは祖国、自由、理想など、愛する人物の代わりになった抽象物の喪失に対する反応」*1(十四/273)である。心的状態としては、「深い苦痛をともなった不機嫌、外界に対する関心の停止、愛する能力の喪失、あらゆる行動の制止」(274)のようなものに陥るが、それは病的なものではなくむしろ正常な作業であり、一定期間ののち克服される。それに対してメランコリーは、対象喪失への反応であることは喪と同様で、精神状態もよく似ているが、とりわけ「自尊感情Selbstgefühl」の低下が激しく生じるのが特徴である。自尊感情、すなわち自己をケアする能力が低下すると、それは「みずからに対する非難と悪口雑言となって現れ」、究極的には自殺に至るような自己への処罰をおこなうほどになる(274)。自責の病なのだ。
 喪とメランコリーの最も大きな違いは、喪が「喪失に関わることは何一つ無意識的でない」のに対し、メランコリーは「なんらかの喪失があったと想定すべきだと確信しているにもかかわらず、何が失われたのかをはっきりと認識することができない」(276)という点にある。喪は喪失が意識的なのに対して、メランコリーは無意識的である。喪の場合には、愛する対象を失ったとき、その対象に向けられていた性的な心的エネルギー、すなわちリビドー*2は、時間をかけて撤収され、やがてまた別の対象に向けられることになる。喪失した対象がはっきりとわかっているため、リビドーをそれとは別のものへと向けることが可能であり、その過程が正常な哀悼の作業となる。しかしメランコリーはそもそも何を失ったのかがわからないために、リビドーをうまく他の対象に移し替えるということが困難なのだ。
   ではメランコリーにおいて、行き場を失ったリビドーはどこへ向かうのだろうか。リビドーは他の対象へと移行するのではなく、自我のなかに引き戻され、そこで放棄した対象を自己に同一化させるのに用いられる。このように、外部の対象にリビドーが向かっている状態(=対象備給)が放棄されるような同一化は、ナルシシズム的同一化と呼ばれている。
 フロイトは「ナルシシズムの導入にむけて」(1914年)において、一次ナルシシズムと二次ナルシシズムを定義している。一次ナルシシズムは、自他の区別がついていない原初的な状態を指し、この状態ではリビドーは自我に内部に滞留している。二次ナルシシズムは、一度リビドーが対象に向かった後に、再び自我にリビドーが向かう状態である。つまりナルシシズムとは、リビドーが自我に向いている状態を指す。「喪とメランコリー」において、このナルシシズム的同一化が「退行」と呼ばれている箇所があるが、それは、ナルシシズムが他者を愛の対象として選択する段階以前の時点に存在しているという意味である。このようにメランコリー的な同一化によって、対象への愛は、より原初的な自己愛へと変化するのだ*3。またこのナルシシズム的同一化は、口唇期、あるいは「食人的な段階」に属するということも提示されている*4フロイトは、リビドーの源泉となる身体器官が成⻑の発達段階によって変化していくという理論を示した。リビドー発達論は、口唇期→肛門期→男根期(エディプス期)→潜伏期→性器期(異性愛的な性器の結合)というように一連の発達段階によって構成されるが、ナルシシズムはそのうちの最初の段階、口唇期にあたる。この段階では、吸乳行為に伴う口腔と口唇の刺激を通して、子供が母親に対して自他未分化的な愛着を示す。
 ただしメランコリーに陥った者は、このように愛する対象を自我へと引き受けるが、その対象へは、愛情と憎しみの両価的(アンビヴァレント)な感情がはたらいている。そのため、同一化によって自我に引き入れられた対象に対しては、リビドー的な愛着だけでなく、批判的な感情が向けられる。フロイトは、その例として、「自分の夫が無能な女性(自分)と一緒になったことを嘆く妻」を挙げている。彼女は自分を非難しているようにみえるが、実は、夫を無能だと訴えているのである。「自我と愛する人との間の葛藤〔Konflikt〕は、自我批判
と同一化によって変化した自我の内的分裂〔Zwiespalt〕へと転換された」*5(281)。本来外へ向くはずの攻撃性が、自身へと向くために「内的分裂」が生じる。それゆえ自尊感情が低下し、自責の病となるのである。このようにメランコリーが生じるには、対象の喪失、両価性、自我へのリビドーの退行という三つの条件がある。自己のうちにあって自己を攻撃する部分は、「喪とメランコリー」においては、「特別な審級」、あるいは「批判的審級」、「良心」とよばれている。このような、自己のうちにあって自己に批判的な審級の名称と内容が、フロイトの著作の中で変遷していくことになる。

 

1−2. ある批判的審級

 フロイトは「自我とエス」(1923年)において、以前に提出したメランコリーの概念が、自我や超自我の形成に関わるものだとしている。つまり、そこでメランコリーはある特定の病理を宿したひとが陥る状況ではなく、個人の心的構造一般にかかわるメカニズムとして捉え直されたのである。

何らかの強制ないし必然の結果、この種の性対象が断念されねばならなくなった場合には、その代わりに、往々にして自我変容という事態が出来することになる。それは、メランコリーの場合に見られるように、その対象を自我のうちに打ち立てる操作とでも言わねばならない。むろん、この代替作業については、詳しい事情はまだわかっていない。もしかしたら、自我は、口唇期の機制へのある種の退行ともいえるこの取り込みを通して、対象の断念を用意ないしは可能にしているのかもしれない。あるいは、そもそもこの同一化が、エスにその対象を断念させるための条件となっているのかもしれない。ともあれ、この出来事は特に早期の成⻑段階において頻発するもので、したがって、こう考えることも可能かもしれない。すなわち、自我の性格は、かつて断念された対象備給の沈澱したものであって、そこにはこうした対象選択の歴史が刻みつけられている、と。(十八/24)

 

 他者を愛すること、またそれを断念することによって自我は変化する。喪失した他者を自我に同一化させることで、自我の性格には変容が生じるのである。バトラーはこのことを、ジェンダー的な性格の変容として記述し直そうとしている。
 なんらかの制約で対象を失わなければならなかった主体がその対象を取り込む過程において生じる自己の変容について、フロイトエス、自我、超自我という心的機構の図式をもちいて説明する。エスとは、欲動(生の欲動と死の欲動)の場であり、「自我と地続きでありながら、無意識的な振舞いをする」心的なものである(十八/18)。生の欲動とは、自己の生命を維持する方向へむかうエネルギーのことで、反対に死の欲動は、生命を死滅させる方向へとむかうエネルギーのことだ。エスはこの二つの欲動の「貯蔵庫」となっている。自我は、エスが外界からの影響を変容したものであり、「激情をはらんだエスとは反対に、理性や分別と呼べるものの代理をしている」(19)。このようなエスと自我の関係は、自由に振る舞う馬とそれを制御する騎手の関係に喩えられる。ただし、この騎手=自我は、「よそから借りてきた力」でもってエスを制御する。その力が超自我である。超自我は、社会的な道徳を体現するという形で外界の影響を代理し、その規範を守るように自我へと命令する。すなわち、超自我は支配的な振る舞いをする部分である。個体の中では、エス・自我・超自我のそれぞれがバランスをとることで、欲求と良心の調整をおこなうのである。
 メランコリーを通じた他者の内在化による自己の内的分裂は、自己を懲罰的に責める感情を引き起こすところに特徴があった。そのような、自己のうちにあって自己を懲罰する部分に、「自我とエス」では超自我という名を与えられている。超自我は「死の欲動の一種の集積場」となり、自我を死へと向かわせる力をもつ。メランコリーに陥る者においては、「自我理想〔=超自我〕が、特別の厳格さをあらわにし、自我に対してしばしば残酷なまでに猛り狂う」(十八/50)。つまり超自我が強すぎることがメランコリーの成立条件なのだ。しかし、そこまで厳格ではない程度の力をもった超自我はすべての人がもつ審級である。この超自我の攻撃性は何に由来するのだろうか。
 フロイトは、「トーテムとタブー」(1913年)においてこの攻撃性の起源を、原父殺害の神話に帰して説明している。原父殺害の神話とは、部族のなかで女性たちを性的に独占した暴力的な原父を、部族を追放された兄弟たちが一緒になって殺害し、その肉を食べたというものだ。兄弟たちは、みずからの性的な欲望と権力への欲求を邪魔する父のことを憎んでいた。しかし殺害したのち食人という行為によって父へと体内化ないし同一化すると、それまで押さえつけられていた情愛の動きが顕れる(十二/184)。つまり、息子たちのうちでは父への憎しみと羨望のような愛情が一体となってあるのだ。前節で述べたように、メランコリーに陥った者は、もともと対象に対して愛と憎しみのアンビヴァレントな感情を抱いている。そしてこの神話においても、父に対するアンビヴァレンツがあることが強調されている。後年、フロイトは「文化の中の居心地悪さ」(1930年)において改めて原父殺害の神話を取り上げ、この息子たちのアンビヴァレンツを超自我の起源としている。

この後悔〔=父を殺害したことに対する息子たちの後悔〕は、父に対する原初的な感情の両価性(アンビヴァレンツ)の結果であった。息子たちは父を憎んでいたが、また愛してもいた。憎しみが攻撃性によって満足させられると、行為に対する後悔というかたちで愛が前面に現れ、この愛が父との同一化を通して超自我を樹立し、あたかも父に向けてなされた攻撃の行いに対する懲罰のためとでも言うように、超自我に父親の権力を与え、こうした行為がふたたび繰り返されるのを防ぐための制限を設けたのだった。父への攻撃傾向はその後の世代でも繰り返し現れたので、罪責感もまた存在し続け、そのつど抑え込まれて超自我に移された攻撃性によって、新たに強められていった。(二〇/146-147)

 このように、息子たちの父へのアンビヴァレンツな感情が同一化の動機となり、そして父親への同一化が超自我の成立の契機となっている。また、超自我の攻撃性は、原初的な憎しみの感情を満足させるものである一方、超自我の存在によってさらに強められていくものでもある。フロイト自身も書いているように、超自我の攻撃性には二つの源泉がある。もともと自己がもっている憎しみの感情と、原父の権力が内面化されることによる攻撃性である。この二つが協働することで超自我の攻撃性は強まっていくのである。

 

1−3. エディプスコンプレクス

 フロイトによれば、超自我は自我がまだ脆弱だったころに生じた最初の同一化と、エディプスコンプレクスの産物である。ここでは「自我とエス」に即して、エディプスコンプレクスの図式を確認しよう。エディプスコンプレクスは、男児・女児と表・裏で、四つにパターン化されているが、エディプスの神話も原父殺害の神話も父と息子の物語であり、超自我の発生においては男児主体がモデルとされている。
 男児における表エディプスコンプレクスは、母(異性の親)を愛し、父(同性の親)を憎む近親相姦的な欲望と、父から罰せられることを恐れる不安(=去勢不安)の複合的な心的現実から生じる。まず男児は養育者・保護者である母親の乳房に愛着を示す(=依託型対象選択)。その一方で、男児は原初的な同一化を通じて父親に同一化している。この関係はしばらく並行するが、やがて母親に対する性的欲望が強くなり、この欲望に対して父親は障害となる。男児は母を奪い合うライバルとしての父を排除し、母親にとっての父親のポジションにつきたいという願望を持つ。その後、男児は父親からの報復、すなわち去勢を恐れる。そしてその報復から身を守るため、男児は父への同一化をいっそう強固なものとし、父の法=命令である近親姦の禁止を内面化する。父親を模範とし、その位置に同一化することで、男児はエディプスコンプレクスを解消するのだ。

対象備給は、断念されて、同一化に取って代わられる。自我のなかに取り込まれた父ないし両親の権威は、そこに超自我の核を形成し、この超自我が、父から厳格さを借りてきて、父の命じる近親相姦禁止を永遠のものとして樹立し、それによってリビドー的対象備給の回帰から自我を安全に保つ。(十八/306)

 母への愛を断念し、権威としての父親へ同一化することが、超自我成立の核となり、自我のなかで近親姦の禁止を命じる部分となるのだ*6。ここで一つの齟齬が生じていることがわかる。すなわち、男児のエディプスコンプレクスにおけて超自我を契機づける父への同一化は、母を奪いあうライバルとしての父への同一化であって、メランコリーを特徴づける喪失した対象への同一化とは異なる。男児の場合、近親姦の禁止によって失った対象は母なのだから、エディプスコンプレクスにおいてもメランコリーのメカニズムが働くとすれば、男児は母に同一化するはずである。男児は父に同一化(エディプス的同一化)するのか、母に同一化(メランコリー的同一化)するのか。この「喪とメランコリー」と「自我とエス」での「同一化」の微妙なずれが、バトラーのメランコリー的ジェンダーの理論において重要である。
 ただしこの矛盾、母あるいは父のどちらかの性に同一化するという前提のもとで、男児のメランコリー的な母への同一化とエディプスコンプレクスの解消に伴う父への同一化は両立し得ないという矛盾については、フロイト自身も気がついていた。そこでフロイトは、あらゆる対象選択に先立つ原初的な同一化とその個人が本来的に備えている気質が、どちらの性的ポジションに同一化するのかを根拠づけるとする仮説を立てた。原初的な同一化とは、前節で述べたように、原父殺害の神話に発した父への無媒介的な同一化である。ただし「自我とエス」でフロイトは、この同一化を本文中では「太古の時期の父親との同一化」と述べておきながら、註では「もう少し慎重な言い方をすれば、両親との同一化」であると留保を加えている。この後には「というのも、性の区別、すなわちペニスの欠落というものをはっきりと知る以前には、父親と母親は異なった価値づけされていないからである」と続くが、「叙述を簡単にするため、父親との同一化のみに話を限る」とされる(十八/26-27)。特に、男児においては原初的な父への同一化が、エディプスコンプレクスにおける父への同一化を強く根拠づけている。一方でフロイトは、男児の場合にもその個体が女性的気質をもっていれば、母への同一化(つまり裏コンプレクス)が生じる場合もあると述べており、結局のところ「もともと子供がもっていた両性性」に依拠してエディプスコンプレクスが生じるとしている(29)。
 このようにフロイトは、男児の場合にも女児の場合にも父−同一化と母−同一化の可能性がありえるとしているが、それを決定する素因に曖昧さを残している。バトラーのフロイト批判は、この論理の因果関係にこそ向けられるのである。

 

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*1:フロイト「喪とメランコリー」、伊藤正博訳、『フロイト全集』、岩波書店、十四巻、273-293頁。以下、フロイトの著作からの引用はすべて『フロイト全集』からおこない、本文中に「巻数/頁数」を示す。巻数が前の文脈から明らかな場合には、頁数のみを示す。ただし「喪とメランコリー」は、十川幸司訳(『メタサイコロジー論』、講談社学術文庫、2018年、131-153頁)も参照する。

*2:本稿ではlibidoをリビドーと統一して表記する。フロイトは、リビドーを「性欲動が心の生活において力動論的に表出されたもの」(十八/156)と定義している。また別の論稿では、「規則的かつ法則的に男性的本性を有」(六/280)すると述べる。

*3:このようにメランコリーにおいては、対象愛ではなく自己愛が中心のため、「転移」がおこりにくく、精神分析では治療できないというのが現在の一般的な見方である。Cf.内海健ラカン理論から「うつ病」を考える」『I.R.S.ジャック・ラカン研究』No.11、日本ラカン協会、2013年、2-15頁

*4:食人的な体内化と、同一化のつながりについては、のちに詳述する。

*5:Zwiespaltの訳語としては、Konfliktとの違いを示すために十川訳の「内的分裂」を用いた。

*6:このように、男児のエディプスコンプレクスが去勢コンプレクスで終結するのに対し、女児の場合は去勢コンプレクスの後にエディプスコンプレクスが生じるという順序の逆転がある。女児の去勢コンプレクスにおいては、男性が持っているペニスを自分は持っていないこと、また母親も持っていないことを発見し、いわゆるペニス羨望が生じる。そして、ペニスを持つものとしての父親、あるいは父親の性質を引き継ぐ異性へと欲望が向けられる。このように去勢コンプレクスがエディプスコンプレクス(異性の親への近親姦的欲望)をうむ契機となる。そしてコンプレクスが解消すると、女性はペニスの代理である子供を欲するようになるのである。Cf.フロイト「エディプスコンプレクスの没落」太寿堂真訳、十八巻、301-309頁(1924年

2022-09-23(石/鐘の金色の音)

 しばらく一週間ごとに出来事と即物的な感情をつらねた日記を掲載していたのだが、自分で見返してみてもつまらなく、また書けることと書けないことの線引きが難しく感じたので非公開にした。前みたいに書ける日は書くことにしようと思う。こうやって書くことの難しさは、日付を冠しているのにその日中に書けなくて結局そのままになってどんどん書けなくなっていくことで、この記事だって書き始めてから公開されるまで(公開できるのかどうかもわからず)一日以上の時間が経つかもしれず、6/27ではない日付が冠されるだろう。(なんと、約三ヶ月も経った)

 私が今感じることと書くことの間にはどうしたって時間的な隔たりがあるのに、ツイッターみたいなツールがあってしまうから、その隔たりのことを煩わしく感じるようになっているけれど、隔たりがあることのほうが真っ当である。原稿用紙の最初から順々に書いていくのが苦手だったと何度も話していると思うけれど、今も紙の日記だと思ったことの半分以上を取りこぼしている感じがしてうまく書くことができず、こうしてパソコンで進んだり戻ったりするようにしか書くことができない。だいたい思考が先行するのでそれをまず目印の石を置いておくようにぐちゃっと単語で書いて忘れないようにして、そのままだと後から見てわからないから間の道を整備していくというように書く。でもたいてい道を整備する忍耐を欠いて、振り返ると中途半端に石ころが転がっているだけで、やがて忘れられる。

 

わたしが日記を書くことが悪であることを今夜ほどはっきりと思い知ったことはない。カフェでのヘンリーとのすばらしい会話に疲れはてて家に帰ってきた。寝室にすべりこみ、カーテンを閉め、暖炉に薪をくべ、たばこに火をつけ、化粧台の下の絶対安全なかくし場所から日記帳を引っぱり出してアイヴォリー色の絹の掛けぶとんの上に投げだし、寝る支度をした。阿片を吸う人はこんなふうにして阿片のきせるを用意するのだ、という気がした。なぜって、わたしが自分の人生を夢、神話、はてしない物語によって生き直すのはこの瞬間なのだから。(167)

 

アナイス・ニンの日記を少しずつ読んではため息をついている。かのじょにとって日記を書くことは生き直すことであり、それはソンタグの「私は生まれ直している」という日記本のタイトルと通じている。

 

アナイスの日記はヘンリーとジューンとアナイスの三者関係が書かれることが多いが、ヘンリーはアナイスから送られたプルースト全集を読み、しるしをつけ、その箇所についてまたアナイスが日記で「ヘンリーはこんなところにしるしをつけている」と書く。ヘンリーにはジューンの謎めきが語り手にとってのアルベルチーヌと重なってみえており、ジューンとアナイスの関係はアルベルチーヌとアンドレの関係に思える。だから私たちが読んでいるのは失われた時では語られなかったアンドレの視点である。

何を読んでもプルーストのことを考えてしまう病に陥っており、そのたびにプルーストはすばらしいと思い直している。書き溜めている私の引用tumblrプルーストに触れている群もあるが、なかでも松岡正剛のこれはかなり凝縮して良さを表している。この文章は一度引用したことがあり、そのときはゲルマントの方で停滞していた。

 

ぼくはもともと文学的な人間でも哲学的な人間でもなくて、またとくに行動的な人間でもなくて、自分が体験したことのなかで気になったことを丹念に敷衍していくタイプです。昆虫採集型です。だから日記や日記めいたものはずっと書いていまして、自分の人生は日記のようなものだと思っていたくらいですが、これって「意識と実景の二重進行」なんですね。いわば編集的なんです。しかし世の中には、そのことをみごとにあらわしている人はいくらでもいる。フランス文学にも、むろんそういう作家や詩人がいた。それがぼくには大学に入る直前ではプルーストであり、コクトーだったんですね。また、パリを描写したリルケだった。それで、自分が書いている日記なんかよりよっぽど凄いものを求めて、フランス文学科に入ったんですが、そこから先に読んだものはフランス文学だからよかったとかダメだったということではなくて、たとえば「パリをどう描いたのか」という描き方について、ぼくが触発を受けたか受けなかったかということでした。〔…〕そういったものを読んで、「そうかパリを書いて、自分を書いているんだ」と思ったわけです。つまり場所を書いている。そういう場所を思考や表現の下敷きにしていると、二重進行が可能になるんだとわかった。そういうふうに書く方法があるのかと思った。これは読書法のほうからいいかえれば、読書をするときに「場所」を下敷きにしながら読むという「二重引き出し読書」とでもいう方法を、ぼくに気づかせたんですね。

 

松岡正剛『多読術』

 

 

 

アナイスの日記に出てくるプルーストも、ウルフの日記に出てくるプルーストも、そのような実景と意識の編集的な実践の参照項として登場する。

 

保苅瑞穂の本も、プルーストを日本語で読むことの美しさをよく引き出してくれる。『読書の喜び』も『隠喩と印象』もよかったが、『隠喩と印象』で、シャルダンフローベールが事物の等価性という発明において共通しており、それをプルーストが理論的に小説に組み込んでいるという指摘は、こうまとめてしまうと普通に聞こえてしまうが、とても説得的な文章の展開で示されていた。

 

 

ところで私にとっては毎日が異なった国だった。私の怠けぐせにしてからが、新たな形で現れるので、とうてい同じ怠けぐせとも思えない。どうしようもない悪天候と言われる日であっても、しとしと降りつづく雨で家に降りこめられているというだけで、まるで船旅に出たような感興が湧き、滑るような快さや心しずめる静寂さを感じる。一方、明るく晴れた日にベッドでじっとしているのは、木の幹のように、自分のまわりにぐるいと影を一回転させることだった。さらに別なときにはちらほらと訪れる朝詣での人のように、近所の僧院からために一番の鐘が響いて、かすかな音のあられで暗い空をわずかに白く染めながら、生温かい風にとかされ吹き散らされてゆくことがある。すると私はあわただしく混乱していてしかも快い嵐の一日を感じとるのだった——そのような日には、ときどき思い出したようにやってきて屋根をぬらしてゆくにわか雨が、ひと吹きの風か一条の陽の光にたちまち上がってしまうと、屋根は鳩のような声で何かささやきながら雨のしずくを滑らせ、風向きがまた変わるまで束の間の太陽を浴びて玉虫色のスレートを虹のように輝かせる。次々と天気が変わり、空模様は急転して、雷雨などがやってくるこうした日には、怠け者でもいわば自分のかわりとなって大気がくり広げた活動に興味をおぼえ、むだに一日を過ごしたとは思わない。ちょうどあの暴動や戦争の時期が、学校を休んだ小学生にとって空虚な日々とは思えないように——なぜなら裁判所の周辺をうろついたり、新聞を読んだりしていると、たとえ自分の勉強はしなくても、発生した事件のなかに知性のプラスになるものや、怠ける口実などを見出したような気になるからだ。それはまたちょうど私たちの生涯で何か例外的な危機の起こる日々になぞらえることができる。そんな日には、これまで無為に過ごした者も、この危機がうまく解決すれば、これを機会に勤勉な習慣がつくと考える。それはたとえば彼が決闘に出かける日の朝のようなものだ。その決闘はとくに危険な状態で行われようとしている。そのとき、ひょっとすると生命も奪われるかもしれないという瞬間に、突然人生の価値が見えてくる。この人生を利用して作品を書きはじめることもできたし、せめて快楽を味わうことぐらいはできたのに、彼はまるで人生を享楽する術を知らなかったのだ。彼は考える「もし殺されずにすんだら、すぐにばりばり仕事をしてやろう、それからうんと楽しんでやろう!」実際突如として人生はかつてない大きな価値を帯びたのであり、それは彼が人生に、平素求めていたわずかなものではなく、人生が与えうると思われるすべてものをこめたからだ。彼は欲望のままに人生を眺めるのであって、これを経験が教えてくれた自分の送れそうな人生、つまりごく平凡な人生と見なしてはいないのだ。たちまち人生は仕事、旅、登山などいっさいのすばらしいことに満たされ、彼はこの決闘が不幸な結果に終わって自分にはそれも不可能になるのだと考える。ところが実は血統が問題になる以前から、芳しからぬ習慣のためにすでにそれらは不可能になっており、たとえ血統がなくともその悪習は続いたはずなのだ。ところでこの男は、かすり傷も負わずに帰宅する。だが、快楽、ハイキング、旅行など、死によって永遠に奪い去られはしまいかと一瞬危惧したすべてのものに到達するのに、彼はやはり同じ障害を見出すのだ。人生がちゃんとそれを奪い去っていた。仕事の方はどうかといえば——例外的な状況は、以前からその人のうちにあったもの、つまり勤勉な者の場合は勤勉さ、怠け者の場合には怠けぐせを掻き立てるので——彼は結局あっさりそれを休みにしてしまう。

 私もこの男のようだったし、また以前にものを書こうと決意して以来ずっとこんなふうだった——その決心をしたのは昔のことだったが、それが昨日のことのように思われたのは、一日一日を起こらなかったものと見なしていたからだ。今日も同様で、にわか雨や晴れ間を無為にやり過ごしたまま、明日こそ仕事にとりかかろうと自分に言い聞かせていた。しかし空がからりと晴れ上がると私は別人になる。鐘の金色の音は密のようにただ光を含んでいるばかりか、光の感覚をも含んでいる(そのうえジャムの気の抜けた味さえ含んでいる、というのもコンブレーでは食事をさげたあとのテーブルに、蜜蜂のようによく鐘の音がいつまでもたゆたっていたからだ)。このようにきらきらと太陽の照りつける日に一日じゅう目を閉じているのは、暑さを避けて鎧戸を閉めておくのと同様にゆるされること、よく行われることで、健康にもよく、心にも楽しく、季節にもふさわしかった。二度目のバルベック滞在の初めごろ、私が上げ潮の青みがかった流れの合間に響くオーケストラのヴァイオリンを聞いたのも、こんな天気のときだった。あのころに比べれば今の方がどんなにか余計にアルベルチーヌをわがものにしていることだろう!日によっては、時刻を告げる鐘の音が、その音の聞こえる範囲内に湿気や光を力強く新鮮に張りめぐらすので、あたかも雨や太陽の魅力を、目の見えない人のために、あるいは音楽的に、翻訳したように思われた。だからこのようなとき、私はベッドのなかで目を閉じながら自分に言い聞かせる、すべては置きかえ可能なのだ、たとえただ音だけの世界になっても、目に見える世界と同じく多様なものでありうるだろう、と。小舟にゆられるように一日一日とのんびり過去にさかのぼり、常に自分で選んだわけでもない思い出、ついさっきまで見えもしなかった新たな思い出が、こちらが選ぶ余裕もないうちに記憶にさし出されて、魔法にかかったように次々と目の前に立ち現れるのを眺めながら、私は平坦な空間をのんびり陽に照らされて歩きつづけるのだった。

 

『囚われの女』Ⅰ、集英社文庫、168頁

 

 

 

ずいぶんと長く写してしまった。