2020-09-28(耳にはまぶたがない/呼びかけ)

無限の受動性(見えない強制的な受容)が人間の聴覚の基盤にある。言ってみれば「耳にはまぶたがない」。

聞くこと、それは離れていながら触られること。
リズムは振動と結びついている。だからこそ音楽は、本人の意図と関係なく、隣の身体を親密なものにする。

 

パスカルキニャール『音楽の憎しみ』、博多かおる訳、水声社、76頁

 

人物像【プロファイル】で見て、漠然と感じていた何かが、その言葉を音の連なりとして聴くことによって、はっきりと血肉を得たような気がした。ルツィアの声がそれを語ることで、データにはなかった理解が形を得たのだ。文字を読むことと、声を聞くことは違う。
耳にはまぶたがない、と誰かが書いていた。目を閉じれば、書かれた物語は消え去る。けれど、他者がその喉を用いて語る物語は、目を遮蔽するようには自我から締め出すことができない。

 

伊藤計劃虐殺器官』、ハヤカワ文庫、186頁

 

 

なぜ街頭の人は、「おい、そこのお前!」に対して、振り向くことで応答するのだろうか。後ろから呼びかける声に直面するために振り向くことの意味は何だろうか。法の声へのこの振り向きは、権威の顔によって注視されたい、またおそらく、権威の顔を注視したいというある種の欲望の表れなのである。権威の声とは、聴覚的光景を視覚化したもの——鏡像段階、あるいは恐らくより適切には「音声的鏡像」——であり、それなしでは主体の社会性が達成されえない誤認を可能にするものである。

 

ジュディス・バトラー『権力の心的な生』新版、佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社、144頁

 

 

座敷に坐って、何か考えていると、膝の下の床下で、猫が動いた様に思われた。
それから暫らくすると、変な、かすれた声で、けえ、けえ、と鳴いた様な気がした。
ふらふらと起ち上がり、庭に下りて、縁の下を覗いて見たら、矢っ張り猫で、子供が三匹いるらしい。私の姿を見て、きっとなり、身構えしている気配である。薄暗いところで、まん丸い眼を紫色に光らし、咽喉の奥かどこかで、ふわあと云うのが、小さな声の癖に何となく物物しかった。

 

内田百閒「梅雨韻」『小川洋子と読む内田百閒アンソロジー』、ちくま文庫、232頁

 

2020-09-24(晩夏/現在)

彼女は彼を見つめた。今日の彼の髪は白っぽく見えた。彼女から四フィートほどのところにいながら、ほとんどこの場にいないかのようだった。彼は我々が「現在」と呼ぶものに対して自分をどう合わせたらよいのかわからないのだ。そもそも「現在」とは何だろう?「現在」を信じるべきものとして捉えない人々にとっては、そんなもの存在しないのかもしれない。

 

ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』、上岡伸雄訳

 

夏休みが終わってしまう。やろうと思っていたことはほとんどやらず、本を買ったり読んだり労働したりしていただけな気がする。でもそんな高等遊民生活もあとすこしで終わってしまうのかもしれない。急に寒くなってうれしい。小雨の降る曇りの日は本が読みやすい。極度の冷え性なのでもう湯たんぽを使っている。紅茶は三杯以上のんでいる。

 

 

秋の授業は翻訳するものをたくさんとった。語学はぜんぜん得意ではないけれど、外国語を日本語に直していく作業はわりと好きだ。無心でできるし。卒論計画書も提出した。このアウトライン通りに書けたらそこそこいいものになるだろうな、と思っているもののどこまでかけるのだろうか。まあ大風呂敷を広げ過ぎと言われるだろう(しかし指導教員が定まっていないのでそれを言ってくれる人すらいない)。

 

読みたい本がまだまだ存在するということが、私の存在理由にもなっている。

2020-09-20(野生の探偵/雪の断章)

 

ホアキン・フォント 一九九七年一月、メキシコDF郊外、ロス・レオネス砂漠道、〈エル・レポソ〉精神科診療所。

退屈な時に読む本というものがある。それはたくさんある。心静かなときに読む本というのもある。そういうのが最良の本だと私は思う。悲しいときに読む本もある。嬉しいときに読む本もある。何かを知りたくてうずうずしているときに読む本もある。絶望しているときに読む本もある。この最後の種類の文学をウリセス・リマとベラーノはやりたがった。それは大きな間違いだった。そのことをこれから説明してみせよう。〔…〕

 

 

一週間くらいかけて『野生の探偵たち』を読んでいた。こんなに長いのに(2666はもっと長いが)、まだまだずっと読んでいたくなるような小説だった。アルトゥーロ・ベラーノがやたらモテるので、まわりの女友達たちの証言が面白くて好きだったな。はらわたリアリストに、おれもなりたい。

 


卒論計画書書くにあたって借りていた本(しかしMBAとかを目指す人のためのものだったらしく、まったく参考にならなかった)に予約が入っていたので図書館に返しにいく。ついでにウィリアム・トレバーを借りようと貸出機のまえまで行ったところで、カードがないことに気がつき、うなだれて本棚に戻す。かなしかったので近くの本屋に行く。佐々木丸美の『雪の断章』を買う。この本の存在はたぶん結構前から知ってたのになぜか手に取らなくて、去年早稲田松竹相米慎二の映画がレイトショーにかかったとき、雪の断章って聞いたことある気がする…とおもったけど結局スルーしちゃって、で、桜庭一樹読書日記で、この本がみなしご文学の傑作であり、映画化されていることを知って、ようやく手に取ったのだった。帰宅し、鞄のなかから図書館のカードが出てきて脱力。

 


お風呂で読みはじめた。巻かれていた帯に「長いけど一晩で読んじゃいます!」って書いてあって嫌な帯だなと思ったけど、たしかにぐいぐい読んでしまい、結局4時くらいまで300ページくらい読んで、寝て、起きて、最後まで読んだ。少女漫画30巻分を圧縮したような展開のしかたで、『キャンディ・キャンディ』のことを思い出したりした。でも飛鳥は根本的に誰も信用しておらず、「天真爛漫なヒロイン」像からはかけ離れている。でもきっともっと若いときに読んでいたらもっとのめり込んだだろう。こう考えることがすでにかなしい。

 

「飛鳥、自分だけが苦労して来たとひがむのは止してちょうだい。苦しみは誰にも理解できないなんて思い上がりだし、そんなジメジメした生き方はナンセンスよ。自分自身で特異な境遇を哀れみ、まるでそのために他人より勝っているかのように信じ込んでしまったのね。思い出すのも身震いする過去が実は宝物になってしまったのよ。毎日こっそりながめて、私は薄幸の少女だなんて涙を浮かべていたのでしょう。およしなさいよ、そんな滑稽なこと、私の気持が口先だけの同情だというなら飛鳥はどうなの。心を開く以前に順子には理解できないとつまはじきするのは侮辱じゃない。そのくせ平気で友人風を吹かせていたのね。少なくとも私はそんな裏切り方はしていない」

 

ロマンチックラブイデオロギーであることに変わりはないけれど、飛鳥の周りの女性がみな強く、こんなふうに飛鳥のひねくれかたを真っ直ぐにうけとめて関わっているところがよかった。


読み終え、余ってた菓子パンを食べてから外に出る。何冊か古本を買ってから(アンナ・カヴァンの単行本が手に入った)、アニエス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』と『落穂拾い』を観た。精神分析家のジャン・ラプランシュがブドウ農家でもあることを知った(でもウィキを見たら精神分析の項目よりブドウ農家の記述が長かった)。帰りの電車でこれを書いた。今日の夜はたぶんジョン・ディクスン・カーの『死が二人をわかつまで』を読む。

 

2020-09-16(読むこと/責任)

 

『三月は深き紅の淵を』が素晴らしい作品だというのは、ここにいる我々や、ほんの少数の人間の共同幻想かもしれない。読書というのは本来個人的なものですから、これはいたしかたない。第一、我々は自分がちょっとばかし本を読んでいると自惚れているかもしれないが、これだってとんでもない幻想です。人間が一生に読める本は微々たるものだし、そのことは本屋に行けばよーく判るでしょう。私はこんなに読めない本があるのか、といつも本屋に行く度に絶望する。読むことのできない天文学的数字の大量の本の中に、自分の知らない面白さに溢れた本がごまんとあると考えると、心中穏やかじゃないですね。

 

いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない?それが見えると、あたし、ああ、あたしも読みながら書いてるんだなあって思う。逆に、そういう小説が透けて見える小説が、あたしにとってはいい小説なのよね

 


両方とも、恩田陸『三月は深き紅の淵を』から。恩田陸の小説は小学生くらいからおりにふれて読んできたのに、なぜか二年前くらいに、『光の帝国』『蒲公英草紙』を手放してしまった、明確な記憶はないけれどたぶんそう。自分のお小遣いで買ったものだったはずなのに、なぜだろう。もうこれから本は絶対的な必要に迫られない限り手放したくない。

 


私は2000年生まれなので、11歳のときに震災があって、12歳から20歳までのあいだ安倍晋三が首相である日本に住んでいることになる。だから、よくわからない、と言ってしまっては不勉強だと言われるだろうか。私がフォローしている非常に狭い範囲のsnsでは安倍を支持している人なんていなくても、世間には支持している人がたくさんいて、たまに覗いてみる高校の同期とかのツイッターを見る限りではふつうに支持してると思う、もちろんみんなそうってわけじゃない。でもじゃあ具体的に誰がどういう政策をすれば今の生活がもっとよくなっていくのかわからないし、これから状況がよくなるとは思えない。大きな歴史のなかでも、いまはそこそこ不幸な時代と言えてしまうのかもしれない。でも就職出来なかったら、それが不況のせいでも私は私の自己責任だと思ってしまうだろう。責任という言葉がよくわからない、責任感があると通知表に書かれてきてそれは褒められてると思ってたけど、自己責任論っていうのは批判されるべきもので、でも他人に対しては責任を負うべきらしくて、私の責任感とやらは一体誰に対してのものなんだろう。望まれた役をまっとうするということ?なにもかもわからないが、社会はどんどん悪い方に転がっていて、しかしそのなかで私の生まれた家が経済的には恵まれている方だということはわかる。

 


TL(ここがわたしの社会)の人の多くがラブリーサマーちゃんの新譜を聴いているみたいなので、わたしも聴いている。

 


さいきん立て続けに読んでる『桜庭一樹読書日記』シリーズの巻末対談で、昔は「これはオレしか読んでない!聴いてない!」みたいなものを持てて幸せだったね、という記述があって、それは本当にそうだろう。みんなが読んでると逆に読みたくないみたいなひん曲がりかたをしているので、たとえば未だにルシア・ベルリンが読めてなくて、そういう無駄に他者がわからない昔が羨ましくなってしまう。スマホのない時代に学生だったら…という夢想をしたことのあるひとは少なからずいるだろう。インターネットがない時代に疫病が流行るという可能世界のことをかんがえる。

2020-09-11(ずっとお城で/みえない)

だれかがくすくす笑って、ほかのだれかが「シッ」とたしなめる。あたしはふり向かない。女たちののっぺりした灰色の顔と悪意に満ちた目なんか見なくても、背後に存在を感じるだけでじゅうぶんだった。みんな死んじゃえばいいのにとあたしは思い、それを大声で言いたくてたまらなかった。コンスタンスは言う。「気にしているところを見せてはだめよ」それから「注意をはらったりしたら、あの人たち、もっとたちが悪くなるわ」——たぶんそれは当たっているのだろう。だけどあたしはやっぱり、みんな死んじゃえばいいのにと思う。いつかの朝、食料品店に入っていくと、だれもかれも(エルバート夫妻と子供たちまで)苦痛に泣き叫びながら転がっていて、死にかけていたならすてきなのに。そしたらあたしはその人たちの身体を乗り越えて、自分で食品を取るだろう。好きなものを棚から取って、家まで帰る。ひょっとすると、転がってるミセス・ドネルを蹴飛ばしてやるかも。こんなことを考えるとき、やましい気持ちは少しも起こらない。ただ、ほんとうにそうなればいいのにと願うばかりだ。

 

シャーリー・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』、市田泉訳

 

世界を呪っている人がでてくる小説のことを好きになってしまう。ベルンハルトとかね。この本はもちろん例のブックリスト(前の日記参照)に追加。シスターフッドって言葉がよく使われるようになったけど、私がその言葉を聞いて想像するのはこういうものだ、あたしたち姉妹以外は全員敵。教室の窓側のあの子は絶対わたしの言葉が通じる、みたいなのをシスターフッドとは呼べない気がする。

 

再来年からの自分がどうなっているかの想像がまったくつかない。ここまでごくストレートに歩んできてしまっただけに、踏み外したらどうしよう、逆にここらへんで一度立ち止まったほうがいいのだろうか、就活なんてできるのか、はやく家をでたい、学問の世界にもうちょっと留まってみたい。本当は読んだほうがいいものを放り出して逃げるように物語ばかり読んでいる。学会とかがオンラインで一般公開されるようになって、いくつか覗いてみたけれど大して面白くなさそうというのが正直なところで、そういうことがわかったのはよかったことだと思う。せっかく良い本をたくさんもっている図書館のある大学にいるはずなのに、閲覧室はこのまま永遠に使えない気がしてくる。はやく自分のお城(たとえワンルームでも)をもって、慎ましくひとりで本を読んでおやつが食べられたら、もう人生それでいいのではないだろうか。

 

ですから僕は、現代文学は基本的に幻想小説だといっていいと思いますね。特に日本では、小説とは虚構であるという点をはっきり自覚したものを幻想小説と呼ぶべきだと思うんです。それは本来、小説の定義でもある、つまりじぶんがフィクションであることに鈍感にも気がつかない文学風土があるわけですよ。それに対して、自分がフィクションである、書かれたものがフィクションである、とはっきり意識するのが小説というジャンルだと思うし、それを幻想小説と読んでもいい。


幻想文学講義 「幻想文学」インタビュー集成』所収の、奥泉光のインタビューより

 

「とりあえず、わたしはこの手紙を書くのに、一度書き上げ廃棄している、二度目を書き上げ、廃棄している。三度目も書き上げ、廃棄している。記憶に頼り、同じものを繰り返そうとするわけだがうまくいかない。その度ごとに違った文言が登場してくる。これは意外な盲点だ。書く行為というものが真実存在するのなら、いつでも同じものが出力されてくるはずだろうと、わたしは漠然と前提していた。そこのチェックが甘かったのは大きな不覚だ」
常にランダムに切り替わっているキーボードみたいに、風に吹かれて並びを変える紙の上の文字みたいに、叔父は手紙を繰り返し書く。
「何度でも同じ形に書き直されるしかない小説をつくるにはどうしたら良い」


円城塔『これはペンです』

 

2020-09-08(レモンタルト/読書日記/ブックリスト)

 

長野まゆみの『レモンタルト』を読んだ。いわゆるBLに関して知識ゼロゆえ、ほーこういう萌えがあるのねと、どこか新鮮さを感じながら。男性作家の設定する女性一人称にファンタジーが交じることがあるが、逆もまた然り。これは新宿紀伊國屋でやってた連作短編フェアで手に取った。昨日読んだ大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』も置いてあったり、昔好きだった橋本紡の『九つの物語』とか、円城塔の『Self-reference ENGINE』(その場では手に取らなかったけどやっぱり読みたくなったのでさっき注文した)なかなかよいラインナップでした。そもそも連作短編という小説形式が好きなんだと思う。

 

図書館でなんとなく借りた『桜庭一樹読書日記 少年になり、本を買うのだ。』がすこぶる面白く、一日2〜4冊くらいは余裕で読んでるスピードに感嘆しつつ、また読みたい本がどさっと増える。わたしにも桜庭一樹が男性だと思っていた時期がありました。泉鏡花が女性だと思っていた時期がありました。

残念ながらわたしは清原なつのの”遅れてきた読者”であったので、学生時代、地元の古本屋を回りまくってなんとか、この花岡ちゃん〔引用者註『花岡ちゃんの夏休み』〕をみつけたのだった。あのときのぼろぼろの古本はまだ東京のワンルームの本棚に大事に並んでいる。でも書き下ろしのあとがきがあるのでこっちも買ったのだが、それによると花岡ちゃんは、少女向けに描いたけれど男性ファンが多くつき、作者は手紙をたくさんもらったという。眼鏡をかけた地味なルックスで、性格は偏屈で理屈っぽい、およそ女の子らしいかわゆさと真逆にいる”昔のお堅い女子大生”花岡ちゃんの、恋と、理屈と、妄想と、がんじがらめのプライドの物語。やっぱり好きだ。読んでいると心が落ち着いてくる。
あぁ。戦いは続く。

花岡ちゃん、読みたいなあ。あと、『私の男』(わたしはこの小説も映画もかなり好き)の執筆時(であることは、この引用部のだいぶ後からわかることなのだが)に迫力があって良い。

本を読むことをやめる。部屋を暗くして、一日、ただ音楽を聴く。ライブ映像を見る。ビデオクリップを見る。誰にも会わない。聴く。聴く。聴く。観る。観る。世界をさがす。まだ遠い。どこか、に……ある……ガンダーラ……ぐらい遠い。不安だ。部屋でおとなしく音楽を聴く。


抑圧的な必読書リストより、だんぜんこういう読書日記のほうが面白いし、なにより、本を読まなきゃ…じゃなくて読みたい!という気にさせる。本を読むことは、その本を読む前の自分をその本を読んだ後の自分にさせるという変化しかもたらさないんだから、なんで必読書!とか言って他人を脅迫出来るのかねえ…と呆れるけど、まあ選書する楽しさもわかるから、結局読みたい人が読みたいものを読めばいいんじゃないの。
かくいう私も、「闘う文学少女のためのブックリスト」というものを読書メーターの本棚機能で作ってある。

国内編 https://bookmeter.com/users/834728/bookcases/11580382
海外編 https://bookmeter.com/users/834728/bookcases/11580372
これは私のごく個人的なもので、まだまだ更新の余地あり、というか、ここに加えうるものをずっと読んでいきたいので減らすことはなくても随時増やします。我は闘う文学少女(性別・年齢問わず)と思う人は良かったら覗いてみてください。

2020-09-06(とるにたらないもの/甘やかな)


きのう、生活必需品を買うのが苦手だと書いたが、逆に、あってもなくてもいいものを買うのは好きだ。必要以上のマーカーペン(さいきんはぜんぜん蛍光色でないものがたくさん売っている)、マスキングテープ、マニキュア、おやつ(とくに個包装のがたくさんはいってるやつ)、ジャム、ハンドクリームなど。本は必需品と呼べるほどの読書家ではないが、あってもなくてもいいものではない気もするのでむずかしい。

 

この趣味は、「とるにたらないものもの」の精神だ、と思い当たって、江國香織の『とるにたらないものもの』というエッセイを読もうと棚を探すと無くて驚いた。どこかに埋れている可能性も無くはないが、一応持っているすべての本を登録してある蔵書リストを検索してもなかったので、ないのだろう。近くの書店に買い求め(ついでに他4冊も)、お風呂のなかで読んだ。20年の人生でもっとも長い間読んでいる作家なので、生活や日常的に発する言葉の細部に影響があるのだろうが、このお風呂で本を読むという習慣はまぎれもなく彼女からきている。

 

10代後半〜30代はじめの女性の江國香織の本を持ってる率はめちゃくちゃ高いとおもう。たぶん、年に20冊とかあんまり読まないような人でも持っているとおもう。ツイッターで、「江國香織の真似に失敗して必然性のない甘い単語が頻出するいびつな短文を書くようになってしまった女たち」がいるという表現をしている人がいて、激しくうなずいた。ひらがなのひらき方とか、「甘やかな」とか「ささやかな」とか独特の形容詞の使い方にあらわれる。おそらく私もそういう書き方をしているところがあるだろう。文体模写はつねに劣化版にしかならない。

それで、お風呂のなかで読んで、うわ、いかにも江國香織だ〜とおもったところをいくつか引用します。

 

小さな鞄を持つのは男性と一緒のときだけと決めていた。そういうときには本も傘もチョコレートもいらないからだ。そういう外出もたのしかった。
でも、それは特別な場合、甘やかな依存外出の場合だ。私にとって依存は恐怖だったので、要るものはみんな持ってます、ええ勿論自分で持てます、大丈夫、おかまいなく、というのが普段のスタンスだった。

(依存外出に本当は傍点。「小さな甘やかな鞄」というのが江國的である)

 

フレンチトーストを食べると思いだす恋がある。私はその恋に、それはそれは夢中だった。それはそれは日々愉しく、それはそれは羽目を外した。

(この「愉しい」という形容詞が、まさしく)

 

私はびっくりしてしまった。人は(たとえ一緒に暮らしていても)、なんて違う考え方をするのだろう。
「避けられないのは傷の方よ。いきなりくるんだもの」
私は主張する。
「生活していれば、どうしたって傷つくのよ。壁も床も、あなたも私も」
主張しながら、なんだかかなしくかってしまった。

(この最後の台詞、小説すぎる)