2020-09-05(買い物/緑の光線/雲)


たぶん、生活必需品を買うのが苦手だ。服、下着、おやつ以外の食べ物、絶対必要な化粧品(アイブロウとか)など。必需品なのにある程度選択の幅があるから、何を選んだらいいのかがわからない。だから、できるだけ決まったものを買うようにするとストレスがあんまりないことに気がついた。

 

まえに、玉城ティナドゥルーズの『哲学とは何か?』をインスタのストーリーにあげていてツイッターで話題になったことがあった。あとは、斎藤飛鳥が好きな本を紹介するネット記事で、現代日本文学体系の『石川淳 安部公房 大江健三郎集』などをあげていてこれもちょっと話題になっていた。しかしこういうのは「美術館女子」と同根にあると思う。ちょっと難しげで文化的なものを年が若くて容姿の美しい女性が見ていると、途端に見られる側へと反転させられる。彼女たちがそのことをどう思っているかはわからないので、それはそれでまたブスの僻みみたいに思われても困るんだけど、こういう思考回路に至ることじたい嫌だから、だからか、実際の知り合いに読んでいる本や映画の話がほとんどできない。今は会わなくて良くなったから逆に話せることが増えた気がする。結局すべて画面越しのことで、その連絡手段さえ絶ってしまえばもう安全に暮らせる。

 

前回の日記から映画を12本みた。『loveletter』『劇場』『グリーンブック』『愛がなんだ』『あの頃、君を追いかけた』『冬冬の夏休み』『はちどり』『髪結いの亭主』『海辺のポーリーヌ』『満月の夜』『緑の光線』『友だちの恋人』。池袋に二日連続で行ったらたいへん疲れた。
『はちどり』は冒頭の、「お母さんなんで開けてくれないの?」からずーっと苦しくて、でもそのあとバイトがあったからマスクを濡らすわけにはいかなくて、ハンカチで顔を覆っていた。これから「マスクの上側が濡れている」を、泣いていることの間接表現とする小説が増えるだろうか。ロメールはみる前から、まあ好きだろうと思っていたから、予想通り好きだった。『緑の光線』の、あの、知り合いのすくないパーティーで誰とも話せずに隅にいる惨めさがずっと続くみたいな感じ。すごく実感としてわかる気がするけど、それが人生スパンで続いたら嫌だな。ああいうの、いまだったら自分で機嫌をとれとかいわれるんだろうか。

 

本は10冊読んだ。『こころは体につられて』『たけくらべ』『グレン・グールドは語る』『ボヴァリー夫人をごく私的に読む』『雲』『博論日記』『わたしがいなかった街で』『精神分析の四基本概念』『バレエ・メカニック』『フレームの外へ』。
エリック・マコーマックの『雲』は、のめり込んで一日で読んだ。そういう感じが久しぶりだったので嬉しい。話題だったラカンの文庫化、とくにラカンに対して思い入れはないが、SFの一種みたいなものなので寝転びながら読めるようになってよかった。ぜんぶの本をほんとは寝転んでよめたらいいのにな(浅田彰がなんか『資本論』は寝ながら読め!みたいなこと言ってなかったっけ?)

本は11冊買った…。

2020-08-27(べつの仕方で/アレゴリー)

レヴィナスの議論のほとんどすべての決定的な点において、「別の仕方で」という意味の可能性ないしは構築は、「あたかも〜のように」にもとづいている。「あたかも〜のように」は、懐疑論における問いかけや言語の多義的本性がそうであるように、意味の開けであり、哲学思想それ自体の内部での「啓示」のひとつの様相である。レヴィナスにおける「あたかも〜のように」は、ベンヤミン存在論なしに意味と関係の星座=布置を構築しようと試みたことに通じている。つまり、「あたかも〜のように」は、ユートピアを垣間見る能力もしくは歴史を修復する能力なのである。レヴィナスにおける鍵構造を成すものとしての「あたかも〜のように」は、レヴィナスの思想を、ベンヤミン的な意味で、「アレゴリー的なもの」たらしめる。「あたかも〜のように」は、その対象を破壊し、裸に剝き、断片化し、意味と表象、真理とその内在的現出の滑らかな連続性に割り込んで、それを破壊するようなアレゴリー的解釈における「別の意味」と同じである。

 

スーザン・A・ハンデルマン『救済の解釈学』、合田正人・田中亜美訳、法政大学出版局、2005年、536頁

 

読むのにすごい時間かけちゃった気がするけど、この一節が読めただけでまあ良かったかなという気もする。本当に何の気なしにつけたこのブログタイトルが伏線みたいになっている。アレゴリーはよくわからない比喩だから。

 

私たちが、起源にある一連の要求や禁令にアクセスするプロセスを翻訳として理解するのなら、このアクセスは、オリジナルなものの時間と場所に歴史的に回帰することでは実現しない。いずれにしても歴史的な回帰は不可能なのだが。むしろ逆で、翻訳が私たちに利用可能なものにしてくれるもの、現時点において翻訳が引き出し照らし出してくれるものに、私たちは向かうしかない。そうであるのなら起源の喪失は、ある種の「要求」が言語や時間を経由して受け継がれ存在し続けるための条件となる。生き残るものは、かくして、破壊されたものであるとともに今なお息づいているものである。翻訳の破壊的次元と啓発的次元とが、いまだ活動しているもの、いまだ輝きを失っていないものとなり、そしてこのことは、翻訳が、現在にも関連性をもつ宗教的資源であることを意味する。もしこれがアカデミックな議論としてのみ理解されるとするなら、こう付け加えてもよいだろう、人はベンヤミンの翻訳論を通してのみ、レヴィナス的な要求を理解できると——

 

 ジュディス・バトラー『分かれ道』、岸まどか、大橋洋一訳、青土社、2019年、30頁

 

廃墟や破壊された断片について語ることはメランコリーに陥ることとちかいけれど、バトラーの、それでも希望を語ろうとする姿勢が好き。

2020-08-22(子供時代/コメット/ズー)

——それは初めてのことだったの、あなたがこんなふうに言葉に捕らわれたのは?
——それが以前にもあったかどうか、思い出せない。でも、これ以後も、人に襲いかかり人を閉じ込める言葉の外へと、怯えて逃げだしたことが何度もあったわ。
——幸福という言葉でさえ、それがすぐ近くにあり、定着しそうになると、あなたは遠ざけようとした……。違う、これではない、こうした類いの言葉ではない、こうした言葉は私を怖がらせる、私はそんな言葉なしですませたい、そんな言葉は近づかないでほしい、どこにも触れないでほしい……ここには、私のなかには、その言葉に見合うものは何もない。

 

ナタリー・サロート『子供時代』、湯原かの子訳

子供のとき確かに感じていたことは、あとになってようやく、言葉によって意味づけすることができる。とくに子供にとっては家庭と学校が世界のすべてで、そこから逃れるには物語の世界に入るしかない。ルリユール叢書は初めて手にとったけれど、コンパクトな装幀がとても好きで揃えて本棚に並べたくなる。

 

 

名前がたいへんかわいいコメット・ブッククラブに入会した。コメットといえば、たしかロンがお下がりで持ってたしょぼい箒のコメット…と書きかけ、何号だっけ?と思って調べたら、コメット260号はマルフォイの初期の箒でした。ロンが持ってたのは〈流れ星〉。コメット・クラブに入ると図書目録が届いて、何を注文しようかわくわくで眺めている。本屋で本を選ぶのも好きだし、家でネットでポチッとするのも好き(しかしこれは動作が簡単すぎて若干の背徳感がともなう)だけど、カタログを見て注文するっていうのは実はやったことがないかもしれない。へんにレビューとか帯の宣伝とかそういう情報がないのも良い。でもこれ、品切れの表示とかないけどぜんぶ頼めるんだろうか。

  

 

●濱野ちひろ『聖なるズー』
 愛情はどこからが暴力か、意志の疎通と言葉を使えることの関係、完全な対等性はあり得るか、ズーたちを調査する中で、著者はセクシュアリティそのものの困難さに戸惑いながらも、しかしとても誠実な態度で人間や動物と対話してゆく。

「アンチがやってくるんじゃないかという恐怖心はあったよ。だけど、人目につくことが怖いというのはなかったな」
数年前のデモを思い出して、ミヒャエルはいった。性暴力やドメスティック・バイオレンスに反対するパレードで泣いてしまった私とは大違いだ。
「なぜ怖くなかったの?」
私は尋ねた。
「慣れたんだよ、そういう恐怖には」
その回答を聞いて、私は悲しくなった。ミヒャエルは不思議だという顔をして尋ねてきた。
「なんできみが悲しがるの?」
「偏見や好奇のまなざしにさらされる恐ろしさに、あなたが慣れてしまったことが悲しいんだよ」
「どうして?それは強さだよ。恐怖や悲しみが人生にはあること、そしてそれはやってきては去っていくことをあらかじめ知っていれば、もうそんなものには振り回されないですむじゃないか」

 松浦理英子と対談していたはずなのでそちらも読んでみる。

 

伴名練編集の『日本SFの臨界点 怪奇篇』に載っていた「雪女」がとても面白かった。著者の石黒達昌という名前に見覚えあるなと思って、八本脚の蝶を検索かけたら、やはり奥歯はこの人の作品を大好きだと言っていた。ついでに高橋たか子でも検索をかけたら、彼女について思っていたよりたくさん書いていて、なかでも「でも宗教はもっともらしすぎます。そこに安住したら高橋たか子になってしまう」(2002年12月20日)と言っていたことに引っ掛かった。ヴェイユの『神を待ちのぞむ』も刊行されたことだし、そろそろこのあたりのことをもう少し真剣に考えても良いかもしれない。

2020-08-19(人形愛/マルジナリア/学魔)

最近読んだ、でいるもの。


高橋たか子『人形愛・秘儀・甦りの家』
 三篇とも、中年以上の女が少年を人形にするというテーマがあり、たぶん澁澤龍彦への明確なアンチテーゼなんだと思う。『誘惑者』にははっきり澁澤が出てくるが、著者自身による略年譜にも1968(36歳)前後に影響を受けたとある。またこの年表で気になるのが、34歳のときの「京都時代に環境から蒙った根深い男尊女卑による、生命力圧殺の症状が、ふいに昂じて、強度のノイローゼに」なったという記述で、彼女は京大仏文で修士をとっているがやはり相当過酷な世界だったのだろう。最近もTwitterで女性院生の過ごし辛さみたいなことが話題に上がっており、実際私も大学の哲学批評サークルなどの界隈をうろうろして感じることだが、まあ現在でもさほど改善されていないだろう。前にいちど女性教員が、「フェミニズムを学びたいなら、東大はおすすめできないよ」みたいなアドバイスをくれたことがあり、国立大学だと私立よりももっと男性の権威性が強いのかもしれない(実際はわからない)。瀬戸夏子の高橋たか子についての論考が『文藝』に載っていたのでそれも読んだけれど、やっぱり「名誉男性」への憧れ/憎悪を持つ女性を書くということが問題として挙げられていた。作品から離れたことを書いてしまったが、高橋たか子は全作読んでいきたい作家。

 

山本貴光『マルジナリアでつかまえて』
 本の余白に書き込みをする古今東西のマルジナリアを集めた書物。面白くて一気読み。石井桃子の凄まじい書き直しとか、デリダアーレントの書き込みとか、やっぱり人の肉筆を見るのは愉しい。索引づくり(というか索引を作ろうとして読むこと)も参考になる。

 

●『超人高山宏のつくりかた』
 『ナイトランド・クォータリー』vol.20に載っていたインタビューを立ち読みして面白かったのと、たまたま読書メーターを泳いでいたら見かけたので炎天下の中往復40分歩き、図書館まで借りに行った。まだ人文学の価値が認められていた東大&東京都立大学時代の昔話しか今のところ出てきてないけど、天才型というより結構勉強して「学魔」になったのだなという感じがする。(追記:でもこういう界隈の人びとが高橋たか子の「生命力圧殺」の一因であったりするのだろう)
紀伊國屋のウェブ書評空間の書評もいくつか読んだ。この人の紹介しているもの(バロックマニエリスム)は結構興味分野で、とくにクリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマンの名が出てきて、

『デーモンと迷宮-ダイアグラム・デフォルメ・ミメーシス』ミハイル・ヤンポリスキー[著] 乗松亨平、平松潤奈[訳] (水声社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

,『バロック的理性と女性原理』を書いたこの人に自力でたどり着けていたのは結構嬉しかった。邦訳たぶん二冊しかないけれど、フランス語の生かしどころかもしれない。文フリで『精神機関史』を買うのを見送ってしまったことをちょっと後悔している。

 

●伴名練編『日本SFの臨界点 怪奇篇』
 近所の書店がやたらSFミステリ幻想推しで、ずらっと面陳されており圧に負けて買ったけど、面白い。中島らも津原泰水も読んだことなかったので、いろいろ読めてお得感ある。

 

●スーザン・ハンデルマン『救済の解釈学——ベンヤミンショーレムレヴィナス
 前学期、レヴィナスベンヤミンで別々にレポートを出したのだが、それを結びつけてくれるような本を探していたところ突きあったこの本。500頁超えの大著ながら書き方はわかりやすく、ド・マンのアレゴリーなども解説してくれているのでありがたい。J・バトラーのジェンダー論には正直飽きつつあるけれど、ユダヤ関連のもの、『分かれ道』とかはまだまだわからないことあるので読んでいきたい。

 

 

暑さと冷房と労働(なぜか今月過去最多勤務時間を叩き出した)とウイルスへの警戒で完全に疲れてしまっているけど、倒れない程度に頑張る。

2020-08-12(無垢なる夏/ハッピーアワー)

あさ起きてもまだくらく雨の音がして、じっとそれを聞いているとまたいつの間にか寝てしまっていた日々が恋しい。夏休みに入ってからはすっかり晴れの夏っぽい日が続いている、いちばん暑い時間帯に外に出なければならないのが夏への憎悪を増幅させる。『無垢なる夏を暗殺するために』という完璧なタイトルの詩集を読んだ。労働しすぎて書くべきものが渋滞している。

 

初めてオールナイトで『ハッピーアワー』をみた。わりと熱烈なファンが多い印象で、ずっと楽しみにしていた。
序盤の重心ワークショップは、え、まだ続くんだろうかと思ったけれど、五時間ほとんど飽きず眠くなることもなかった。うわべの会話の白々しさとか、言葉の通じなさとか、それでも向き合いたいと思うこととか、ここで描かれていることはわかるけど、私はいま本当の会話をしようと思う友人すらいないし人間関係にたいして興味がないので、ちょっと見るときが違かったらまた切実さが変わるだろうと思う。どちらかといえば言いたいことを言ってしまうタイプで、義理があったとしても行きたくないところには行かない選択をしてしまうので、私だったらこの場から即刻立ち去っているよ…と思う場面が多々あり、そんなに言えないものだろうかともやもやしていたところで、桜子が「あかりが(芙美に)言わせへんかったとは思わんの?」みたいなことを言って、ああ、たしかに誰も私に本当のことを言おうとは思わないよね、とそこが一番ずしんときたところだった。早朝の池袋はべつによるところもなく早くシャワーを浴びて寝たかったので、終わったらすぐ電車に乗った。映画を見たあとはちょっと気が抜けているのか、街で声をかけられる確率が高くなる。それにしても、『寝ても覚めても』のキャストはこれみたんだよね…?という余計なことも考えながら帰った。小説家の女が微妙に唐田えりかに似ていたし。邦画に出てくる女はみんな細すぎる。かりかりに痩せた看護師になって屋上で煙草を吸う人生もいいなと思う。油断してストレッチ筋トレなどをサボり、マックナゲット15ピース(390円!)をひとりで食べるなどしていたらまた太ってきた気がする。

 

自由間接話法について書こうとしているのだけれど、今日は書ききれそうにないのでまた次に回します。本当にフランス語を夏休み中になんとかしないと後悔するのが目に見えているので、頑張る。

2020-08-05(ノート/書く)


私はノートをつけることが結構好きで、人がどうやってノートをつけているのかを見るのがもっと好きで、どれくらい好きかというと、小学生の時に「東大生のノートはなぜ美しいのか2」をお小遣いで買うほど好きで(東大に行きたいとかじゃなくて、普通に色んなノートが見たくて買った)、今はあんまり見てないけど、notebookersというサイトとか、モレスキンのサイトとかをよく見ていた。でも残念なことに私には美的センスというものが欠けていて、可愛いイラストを書いたりマスキングテープを貼ったりコラージュしたりってことはできないので、もっぱら文字を書くことになる。パソコンを得てからはあんまり書いてなかったけど、さいきんやっぱりなんだかんだ紙が好きということに気がついたので、備忘録的に、今のノート使用状況を書いておく。

 

・三年日記:無印良品 文庫ノート
 これは日々の出来事のみ(感情などは書かない)を書く。2016年から続いている。一ページを上下に三分割して、三年分の一日が一ページにまとまるようになっている。

 

・日記:モレスキン 一番小さいサイズのピンク
 日記というか、感情がわーってなってる時に書く。全般そうだけど、これは特に死んだら見ずに焼いて欲しいノート。2015年から。一冊目は横掛を使ってて、二冊目に誤って無掛を買ってしまったけど値段高いし、無掛で0.28のペンでぎっしり書くのが好き。三冊目をピンクにするかは怪しい。

 

・雑記:無印用品 A5スリムノート ベージュ
 本、映画など作品を読んで考えたことや、疑問などを書く。レポートのメモになることも多い。ツイッター紙版みたいな感じ(ツイッターを転記することもある)。2019年の夏からで三冊目。安いので気にせずがしがし書けて、表紙が厚くて角が丸いので鞄の中でもグチャってならなくて、中紙もわりとしっかりしてて裏抜けしないので好き。ストックしてる。前はMDノート文庫の方眼を一冊だけ使ったけど、高いし表紙がやわなのでダメだった。

 

・引用:ミドリ MDノート文庫 横掛
 本の気に入ったところなどを写す。たぶん2018年から使ってるけど最近よく使うようになった。もうすぐ一冊目が終わるところ。これは持ち歩かないので表紙が弱くても大丈夫。下敷きにロルバーンのサイズぴったりものを買ったけれど、微妙に使いづらいのでミドリに出して欲しい。二冊目をA5サイズにするか迷ったけれど、文庫サイズで並ぶのが可愛いと思ったので同じのを買った。

 

・本のノート:無印良品 A5ルーズリーフ方眼
 学術書を読むとき、持ってるものだったら書き込んじゃうことも多いけれど、図書館のものも多いのでメモを作っておく。左側にページ数を書いて、その隣に内容を簡単に書く。見直す用に作っているのに、方眼だとなぜか字が小さく汚くなってしまうのが悩み、横掛にしようかな。あんまり詳細に書くと本を読み終えるのに時間がかかって苛々するので、面倒になってきたら書かないこともある。「ここわかんない!」とかもペンの色変えて書いておいたり、別の本の参照ページ数も書いておいたりする。前はbearというメモアプリでメモ作ってから、それをワードに移してルーズリーフに合わせて印刷するってことをやったけど、あまりにめんどくさいのですぐにやめた。見やすい字が書ければ手書きがいちばん。

 

・文献メモ:ダイソー 情報カード無地
 文献メモも雑記帳に書いてたんだけど、どこに書いておいたのか冊またぐとわからなくなってきてしまい、こちらに転記。左上に穴開けてリングで閉じている。まだそこまで実用性を獲得していないけれど、ある本で参照されていて気になったものを書いておくパターンと、あるテーマごとに気になった本を書いておくパターンがある。読んだらチェックつけておく。

 

・スケジュール:無印良品 A5ウィークリーノート
 スケジュールが基本的にバイトしかないので、スマホで事足りてるんだけど、この期末があまりにもマルチタスクだったので締め切りが混乱しないように買った。今は、その日読了した本や進行中の本を書いたり、日々のタスクを付箋(ダイソーのクラフト付箋)に書いておいてそれを貼ったりしてるけれど、あんまり続く気がしない。

 

・下書き:無印良品 B5らくがき帳
 この前のレポートの下書きメモに使ってみた。文章自体はパソコンのメモに書くけれど、線状的に考えられない時はアイデアなどをとりあえずわーっと書き出してしまうのが良いのでこちらに。普通のコピー用紙でもべつに良いんだけど、藁半紙みたいな素材がなんか可愛いのでよし。あと、レポート用紙みたいに最初は束になってて後から切り離せるというところもよし。サラサのボルドーととても相性が良かった。今は特に使っていない。

 

 

筆記具はユニボールシグノのノックタイプ(キャップ式はダメ)の0.38が好きで、黒をヘビーユーズしている。赤と青はバイトで、ブルーブラックは引用ノートで使う。本への書き込みはステッドラー鉛筆2Bかフリクションスリムのブルーブラック(後者の方が多い)。あとは前述のサラサのボルドーが最近のお気に入り。
ラインマーカーはほとんど使わないけれど、マイルドライナーかプロパスウィンドウ、黄色かピンクか紫をよく使う。プロパスの方が滲まない気がする。

本のマーキングは100均の細い付箋を使ってるけれど、文字の上に貼ると剥がした時に文字が持っていかれるらしいので、文字に被らないように横貼りしたりしてる。短時間の付箋は紙のこともある。数日前からフランス語をやるようにしているので、熟語や構文など覚えるべきことを付箋に書いてそれをルーズリーフに貼ってるけど、効果的かどうかはわからない。もうちょっと続けてみる。

 

一日に何ツイートもする人のいうことではないが、やっぱりゆくゆくはツイッターを完全にやめたくて(外部サイトのまとめ的な役割だけは残しておいてもいいかも)、ここだけに書いていきたい。

 

土曜日に買った化粧水を失くしたっぽくて(日曜に掃除した時に間違えて捨てたのだろうか…)今日はかなり憂鬱だった。

 

2020-08-02(外は夏/逃避)

絶対むりと思ってたレポートたちも、なんやかやとむしろ最後は余裕があり、ズルする(過去の自分のレポートを焼き増しする)こともなく無事に全部提出して、夏休みを迎えた。終わってみると、あんなにあわあわして絶望的な気分になってたのはなんだったんだ…という気になる。余裕が出てくるともうこれくらいでいいやとなって時間があるのにやらなかったけれど、こういうとき、高校の同級生のRなら絶対に妥協せずにぎりぎり最後までやるだろうと思う。本当に自分に厳しい子で、端から見ているとそんなにやって、いつか折れてしまわないだろうかといらぬ心配をしたものだった。

すでにレポートにレスポンスをつけてくれた授業が二つあって、両方ともわりと好評だった。学問と承認の話はここでもう何度もしているけれど

2020-03-06(成績/いくつかの映画) - よくわからない比喩

、私はより良い文章を書くために、私よりも文章が上手にかけて頭の良い人からアドバイスをもらえたら良いなくらいに思っているので、褒められるよりは具体的に批判してもらう方がありがたいけれども、まあ認められるのはうれしく、私は私の信じることをやっていけばいいと思える。

結局インターンの募集すら見ず、再来年以降のことに対して何も考えられていないし、今年の夏もバイトと読書でほぼ終わるだろうけれど、院進するならばフランス語と英語だけはやっておかなければならない。目指している水準に対して、単にやる時間が短いだけなのだけれど、苦手意識が先行してしまうので億劫。

期末期間中の現実逃避には、Deemoを結構やり込み、YouTubeを結構見た。基本的にめんどくさがりで化粧にそこまでの興味がない(化粧品にはある)ので、マイナスをゼロにするみたいなことしかしてないけれど、メイク技術の高い人の動画を見ると、こんなにいろいろするのかと感心して(とくに白雪姫乃ちゃんのメイク動画に驚いた)実験したくなる。去年の一月あたりのマックス体重からは7キロくらい落ちて、だいぶ許容できる身体に近づいてきているが、もっとちゃんと身体を制御したい。

夏だからキム・エランの『外は夏』を借りてきて読んだけれど、べつに全然夏の話ではなかった。セウォル号沈没事件が2014年4月に起きて、この事件は日本でいう東日本大震災のように文学に影響を与えたらしい。これもその流れの一冊。

中央は絶滅の危機に瀕している言語を保護し、戒めるためにこの区域を造成した。結果は正反対だった。そしてそれは中央が内心望んでいたことだった。彼らは忘れるために哀悼した。蔑視するために祭り上げ、殺すために記念した。もしかすると最初からすべて計算済みだったのかもしれない。今日もここでは古より続く言語の一つが嘘みたいに消滅した。

キム・エラン「沈黙の未来」『外は夏』、古川綾子訳